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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


by oume-akebono
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(ガラテヤ人への手紙 4章19節)      大谷唯信牧師



「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」



パウロはガラテヤの諸教会の不信仰を嘆いて語っているのだ。何が原因なのだろう。もう少しパウロの言葉を聞いてみよう。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか(ガラテヤ3:1)と大変な剣幕である。「わたしは、ただこの一つの事を、聞いてみたい。」「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。」と激怒しているのである。パウロは多くの事を言っているのではない。「ただ、一つの事を…」と言っている。問題はこの一点なのである。



 これはわたし達にとっても他人事ではない。謙虚に自分の事、私たちの教会の事として受け取るべき事ではないだろうか。確かに私たちの教会は神の祝福を沢山受けている。先週の及川久・恵子夫妻の結婚式にも、わたし達の想いを超えた主の恵みを見た。正に奇跡の連続である。サタンが入り込むのは、こういう時なのだ。わたし達の思いを肉に引きずり込むのである。「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。」とこれは叱咤激励である。ペテロも最後の晩餐の時、優位に立って忠誠を誓った直後の言動でイエスから「サタンよ退け、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱り飛ばされている。いずれも肉と霊の問題なのだ。


わたし達はさらに肉を捨て霊に生きる事を主に祈り信仰によって歩もうではないか。御霊は御言葉を信じ従う信仰の中に働いて下さる。すでに主は救いを完成させ御霊の九つの実を私達に与えて下さっておられるのだ。肉を見たなら嘆くのではなく、感謝して主の十字架に捨てる事を覚えよう。


























# by oume-akebono | 2018-10-21 13:04 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章19節)    大谷唯信牧師



「わたし達が愛し合うのは、神がまずわたし達を愛して下さったからである」



私達は常に教会の成長を願っている。子供の成長と同じく教会は日毎に変化し成長していく。何故なら教会にはキリストの体としての神の命が注がれているからだ。つまり私達に神の命が注がれていると言う事である。神は愛である。「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、私達の罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)「彼によって私達を生きるようにして下さった」(Ⅰヨハネ4:9)



愛する愛も、生きる命も根拠は自分ではなく神でありキリストの十字架にあるのだ。世の人々はこれを知らず一切の根拠を自分に置く。だから問題が起きるとすぐ力が尽きるのである。またどんなに善い事をしても愛しても自分が根拠であるからエゴを脱する事が出来ない。



人間を駄目にし不自由にしているのはこの自分の中にいるエゴなのである。しかし世の人はエゴが発揮できた時、自由を感じ生きがいを感じる。自己実現は嬉しいものだ。喜びである。ところがどうだ、エゴが通らないと悲劇のヒーローになってしまう。これこそ悲劇ではないか。これほど本来の自分の立つべき所からズレてしまっているのだ。今の世の政治・経済・社会をこの観点から見るとあらゆる問題が、即ち国際問題から個人一人ひとり、夫婦親子の問題までこの本質からのズレが原因と見えてくるのではなかろうか。しかし私達は他者にある問題点は見事に見えるのだ。肝心な自分の中にあるエゴには目が向かない。「自分なり」の正しさの中にいるからだ。捨てるべき自分を良くも悪くもかかえ込んではいないだろうか。



もう一度初心に帰ろう。教会は得る所ではなく捨てる所なのだ。パウロは「わたしは何とみじめな人間か」と投げ捨てた瞬間、主の光の中にすでにいる事がわかった。神がまず私達を愛して下さっておられるからである。





























# by oume-akebono | 2018-10-14 13:12 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 3章16-17節)    大谷唯信牧師



「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」



神がわたし達に賜った救いとその恵みは、わたし達の思い、考えをはるかに越えている霊的存在である。キリストの十字架の御業は単にわたし達を救って下さると言うだけではない。それは神の選びによってこれから神の示す道を歩ませるためのアブラハムの第一歩なのである。誰でも「からし種一粒」の小さな信仰から始まる。誰でも人は赤ちゃんとして生まれるではないか。一人として大人で生まれてくるものはいない。



しかし人はニコデモのような立派な学識を持ち指導者として尊敬される地位を得る者になってもイエスは彼に「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ33)と言われた。神の命の世界ではこの世の知恵、地位は全て関係がないのである。さらにイエスは「誰でも幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)と言っておられる。



これらは霊の世界の領域なのだ。霊の領域をこの世の知識の尺度で計ってわかるものではない。霊の領域は幼な子のように純粋で素直に認め受け入れる。実に最も単純な幼な子で良いのである。もし「わたしも信仰を持って歩みたい、救われたい」との願いがあるならそのように決断し一歩進めるべきであろう。何故ならそれは御聖霊があなたをノックしておられるからだ。聖霊の働きかけがなければ人はイエスに対しても、救いに対しても全くの無関心で気にもならないのが普通である。教会にまだ来られた事の無い人でもこれらに関心の心が動くならばすでに御聖霊は働いておられる。まして教会に来られているなら確実に御聖霊は「内なる声」として語りかけておられる。しかも「からし種一粒」の信仰から30倍、60倍、100倍となる生命の力を約束されている。この一粒で聖霊の住まわれる「神の宮」とされているのである。






















# by oume-akebono | 2018-10-07 14:25 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章12節)      大谷唯信牧師



「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」



救われた信仰の根拠は自分の中にではなくキリストにあり神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読みまた自分を見る。一時は強くなったようであるが少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむ事になる。いつの間にか自分を見て評価し自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。



パウロもそうであった。ローマ人への手紙6章は彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登って見ると道は険しく美しい富士山は見えず瓦礫の山々であり、自分の足もとの一歩一歩の苦しい現実に「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。



そこでいよいよ自分に全く絶望し自分を見放し「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げる。わたしの場合は十字架のイエスが「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と重なり叫んで神に自分の真黒な体を投げ込んだ。絶望の死の中へである。少しして気づくと「わたし達の主イエス・キリストによって神に感謝すべきかな」と歓喜に変っていたのである。



ローマ人への手紙7章は救いの主観的事実なのだ。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためにはローマ人への手紙6章7章8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。

























# by oume-akebono | 2018-09-30 14:29 | 週報メッセージ

(使徒行伝 4章13節)         大谷唯信牧師



「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。…」



あの弱かったペテロが驚くほどの変身を遂げた。私はこのペテロの歩みを見る時、いつも慰められ、励まされる。肉の人から霊の人へ変えられていく経過を、共感しつつ見るからである。



いつも失敗してはイエスに叱られていた。常に熱心で思った事はすぐに口に出し行動する。良かれと思ってのことが、結果的には失敗となってしまう。「サタンよ退け!」とまでの叱責を受けたり、ユダの裏切りに激怒し、自分だけはと忠誠心を心から誓ったりした。いつも全力投球なのだ。しかし、ユダと同じ裏切りをしてしまう。どうしてこうなってしまうのか。誰でも自分の人生は、一歩一歩自分の足で歩き、身をもって体験し、初めてその意味が分かってくるものである。事の善し悪しだけならば誰にでもわかるであろう。



73回目となる長崎原爆の日の平和記念式典に史上初めて国連事務総長が参加され、次のように語った。「2017年には核兵器の近代化等に1兆7千億ドル以上のお金が武器や軍隊のために使われた。今までの最高額であり、世界中の人道支援に必要な金額のおよそ80倍にもあたる」と。(2018.8.8.朝日)



この世は平和を求めてはいるが、人を殺す武器の力で互いを牽制し合う中でしか、話しも進められないのが現状である。ダビデは3千年も前に「王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。…見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」(詩篇3316-18)と述べている。



肉と霊の問題なのだ。イエスは霊の次元で語るのだが、ペテロは肉の次元でしかわからなかった。どれほど熱心でも「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ローマ人への手紙85-6)ペテロはこれが分かったのだ。


























# by oume-akebono | 2018-09-23 13:00 | 週報メッセージ