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(歴代志下 20章12節)       大谷唯信牧師



「…われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです。」



ユダの王ヨシャパテは攻めて来る大軍を前にして、祈るしかなかったのです。国の存亡の危機に瀕し、全国民が心を一つにして祈りました。「ユダの人々はその幼な子、その妻、および子供たちと共に皆主の前に立っていた」。(歴代志下20:13) これが大切なのです。敵に応戦するため会議をしたり、武器を集めたり、ではありませんでした。



「アブラハムの子孫は与えられたこの地に住み、あなたの名のためにここに聖所(教会)を建てて言いました。『つるぎ、審判、疫病、ききんなどの災がわれわれに臨む時、われわれはこの宮の前に立って、あなたの前におり、その悩みの中であなたに呼ばわります。すると、あなたは聞いて助けられます。あなたの名はこの宮(教会)にあるからです』と」(歴代志下20:8-9)現代でも、このような状況に立たせられている方が沢山おられるのではないでしょうか。世界情勢は勿論ですが、私たちの身近な生活のなかに、です。



昔も今も信仰の基本は同じです。「第一のものは第一に」、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」。(マタイによる福音書633)到底信じられない事を主の名によって信じる、これを信仰と言います。自分の力量で計れる範囲は何とか信じられるかも知れません。しかし、主ははっきりと不可能を信ぜよと言われます。ダビデは「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇234)と言いました。その信仰の力はどこから来るのでしょう。



「わたしはみ言葉によって望みをいだいたからです」(詩篇11974)と御言葉を自分の信仰告白にしているのです。ヨシャパテも預言者を通して「この大軍を恐れるな、これはあなた方の戦いではなくて、主の戦いだから」と言われた。「彼は地にひれ伏した。」(歴代志下20:18)とあります。今年は私たちも「御言葉で考え、御言葉に立つ信仰告白の恵み」を得る1年にいたしましょう。





































































































# by oume-akebono | 2018-01-07 17:19 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章1~3節)   大谷唯信牧師



「あなたがその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」



今年もいよいよ最後の主日を迎えました。今日は普段とは違い、時の流れを一段と厳粛な想いで過ごす時ともなりましょう。世界中が泣いても笑っても、時は確実に刻まれ過ぎ去っていきます。物理的、無目的な時の流れ、移り行くその中に、創造主なる神の愛――イエス・キリストの十字架の愛が今も自分に向けられていることを認めるなら、人生は一変します。



聖書は語っています。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と。「生まるるに時があり、死ぬるに時があり、…愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」と語り、結局、「働く者はその労する事により、何の益を得るか」と問いかけています。彼は誰よりも大いなる者となり大きな事業、多くの財産、あらゆる快楽を得たが、皆、空であり風を捕えるようなものと告白しています。しかし神を認め、信じ、神と共に歩む時、すべてのものが新しくされ、「神のなされることは皆、その時にかなって美しい」と告白するまでになったのです。心の霊的な目が開かれると物事を自分の側からだけで見るのではなく、神の側から見て自分の立ち位置が広く客観的にも見えるようになってきます。しかも「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見極めることはできない」(伝道の書3:1-11)と語っています。



神の世界を私達は見極めることはできません。しかし、信じることは幼な子でもできます。「神は霊であるからあなたがたも霊とまこととをもって礼拝しなさい」とイエスは言われました。心で信ぜよということです。



この時の流れの中にも、私達の生活の中にも主はおられ、内なる声となって導いておられます。「今の時」を主と共に、です。






























# by oume-akebono | 2017-12-31 23:22

(ヨハネの第一の手紙 4章8~9節) 大谷唯信牧師



「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」



今年もクリスマスがやって来ました。皆様と共にイェス様の御降誕を祝う礼拝ができます事は何よりの喜びです。幼稚園では毎年恒例のクリスマス・ページェントが行われ、こども達の成長に感動いたしました。



クリスマスはキリストの降誕を祝う日なのですが今では街々がクリスマスツリー、夜は色とりどりのLED電球が突然輝き、クリスマスソング、讃美歌の響き、市民もサンタクロース、プレゼント等々で思いは色々あるとしても12月の風物詩となって生活の中に溶け込んで来ているのではないでしょうか。外国では激しい戦場も一時休戦し静けさに満ちた星空の下、遠くから「きよしこの夜」の合唱が聞こえてきたと言う話も聞いています。兵士は何を考えたでしょうか。「人は何故殺し合うのだろう?」と考えたのかも知れません。150年前のアメリカ南北戦争の時の話です。



キリストが生まれるとの預言はキリストが生まれる750年も前ですが同じような戦禍でした。聖書に示されています。「すべての戦場で、歩兵のはいた靴と、血にまみれた衣とは、火の燃え草となって焼かれる。ひとりのみどり子がわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(イザヤ9:5-6)



神は私達を神御自身の絶対愛につなげるためにひとり子イェスを平和の君として与えて下さったのです。



人は平和をとなえるだけで造れません。歴史を見ても現在の世界を見てもわかります。エゴから抜け出せないからです。神の愛につながるならば出来ます。

これがクリスマスです。本当のクリスマスを求めましょう。「愛は寛容であり情け深い。ねたまない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。」(Iコリ13:4-8)


























# by oume-akebono | 2017-12-24 18:19 | 週報メッセージ

(ヘブル人への手紙 4章2節)    大谷唯信牧師



「彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言葉は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」



聖書は神の啓示によって書かれました。人間の知恵によってではなく神からの聖霊の導きによって書かれたのです(Ⅱテモテ316)。御言葉は私たちを罪から救い、滅びについて、又、生きる目的、意味、在り方等に目を開いて下さいます。



しかもそれは単なる空論の教えではなく、具体的にイスラエルを選び、私達の生活、歴史の現実に中に入り込み、救いとその道を与えて下さるのです。

しかし、イスラエルの人々にとっては「無益」であったと述べているのです。何故でしょう。「それは聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」と言うわけです。



神の命を受け取るのは「信仰」であって、知識でも感情でもないのです。「神は霊であるから礼拝する者も霊とまことをもって礼拝せよ」と主は言われました。どう言うことでしょう。聖書の人間理解で整理してみましょう。四角を四等分した田の字で四つの領域を見ます。左上を頭(知性・知識)、右上を心(感情)、左下を身体(健康)です。普通この三つの領域で人は生きていますね。しかし、もう一つの領域が残っています。右下です。それはスピリチュアルな魂の領域で、他の三つの領域を超えている存在であり、他を統括する働きをしています。「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道の書311)との御言葉がありますが、聖書は正にこの領域、永遠の神に直結している霊の領域の出来事をリアルに示しているのです。



ここにキリストをお迎えし共に生きることが信仰生活です。ここに命が入ると、その上にある心が生き生きとし頭も体も元気になります。聖霊は神の約束ですから、私達はこれを自分の信仰告白として受け入れ祈り宣言していく時、神の御臨在の中を歩む事になるのです。「十字架の言が神の力となる」が実感となるでしょう。
































  


# by oume-akebono | 2017-12-17 16:01 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 37章37~38節)    大谷唯信牧師



「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」



イエスを信じる者には誰でも聖霊が与えられます。これはイエス様の十字架以前からの約束でした。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」(ヨハネ14:16



ところが「自分には聖霊が来られているかどうかわからない」と悩んでいる方がおられると思います。主は言われました。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受ける事ができない」と。しかし「あなた方はそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたの内にいるからである」と言われています。しかも「私はあなたがたを捨てて、孤児とはしない」とまで約束しておられるのです。



このところ、わたしは連盟総会や東京連合の集い等に参加し、諸教会やその方々にお会いするのですが一つ大きな心配を感じています。それは「この方々には牧師も含め本当に生ける主と出会っているのかしら?」という疑問です。確かに御言葉を語り、祈ってもいます。でも生きた信仰が感じられない方がふえているように思えることです。「富める青年信者」であり「ニコデモ信者」を見るのです。即ち、永遠の命と言う深い問題を主に求めながら、主の答えに対して「そんな事は小さい時から知って守っていますよ。他に何かないですか?」と知っているがために何も聞かず、深めることもしない青年、又、パリサイ人、サンヘドリンの議員でもあったユダヤ人の宗教指導者ニコデモは、挨拶の一言だけで「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」と正に全面否定されてしまったのです。ところで私達はどうでしょうか。信仰に立つのです。火の消えたストーブに火と書いた紙を貼りつけてあたっていたり、火が消えかかっているのに放置している事はないでしょうか。見えてるもの影には見えないがそこに必ず求めるべきビジョンがあるのですが。






































# by oume-akebono | 2017-12-03 17:55 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 12章11~12節)      大谷唯信牧師



「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。



聖書(御言葉)は神の約束です。ならば、聖書は私の信仰告白であると応答していきましょう。まず、信じ祈ることです。預言者も、イエスご自身も祈りによって道が開けました。ただ主の御名によってのみ祈って下さい。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。」(ヨハネによる福音書14:13



悔い改め、信仰、祈りは御霊でひとつにされます。主の祈りのように、いつでもできる祈りを持つのも大きな助けとなります。祈りは実践です。多くの人が実践し、祝福されている祈りを紹介しましょう。



「天のお父様、今あなたに全てを明け渡します。あなたに全てを委ねます。私の体も、魂も、霊も、家族も、仕事も、経済的な全ての状況も、私の弱さも、強さも、私の過去も、現在も、未来も、全てを永遠にあなたにお委ねいたします。主よ、私の全ての罪、不義、私の冷たい心、、私の信頼のなさ、私が今まであなたを悲しませてきた全てのことに、悔い改める心を与えて下さい。主よ、あなたを喜ばす方向へと、向きを変えて進めるように、私に力を与えて下さい」。



「聖霊様、今あなたを私の人生に歓迎いたします。あなたを讃美し、愛します。どうかイエス様を通して、私が求めてきたものを天のお父様から受取れるよう助けて下さい。あなたとの交わりに入れるように、助けて下さい。自分ではどうしたらよいのかわからないのです。あなたの臨在がはっきりとわかり、あなたの御声が聞こえるように助けて下さい。従うことを約束いたします」。



「主イエス様、私が従い学ぶように御霊の油を注いで下さい。私の周りの人々や、あなたが私の所に連れてこられる人々に触れられるように、あなたの力を与えて下さい。次になすべきことをも示して下さい。主イエスの名によってお祈りいたします」。



神の臨在に触れる期待の心で、祈って下さい。



































# by oume-akebono | 2017-11-26 18:50 | 週報メッセージ

街はもうクリスマスムードですが、今年は12月3日(日)からアドベント(待降節)です!

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今、幼稚園では、子ども達がページェントに向けて一生懸命にイエス様の御降誕の出来事を練習しています。
たくさんの賛美歌とともに演じられるページェント
今年も、二日間上演されます。
教会学校のクリスマス会は、
  16日(土)(小学科-13:00~、中高科-17:00~)
ベビーのためのあけぼのプレイルームのクリスマス会は、
  18日(月)10:00~ に予定されています。
  プレイルームのクリスマス会では、ハンドベルの演奏もあり、
  ご両親も一緒にお楽しみいただけます。  

今年のクリスマス礼拝キャンドル礼拝は、クリスマスイブ   
ハンドベルも演奏され、イエス様の御降誕をお祝いします。


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# by oume-akebono | 2017-11-24 19:23 | 集会案内

(ヨハネの第一の手紙 4章18~19節)        大谷唯信牧師



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを取り除く。わたし達が愛し合うのは神がまずわたし達を愛して下さったからである。」



神は私達のすべてを御存知であり、御自分の御手の中で私達を包み導いておられます。私達にとって良い出来事も悪い出来事も神はすべてを主の訓練の時にして下さいます。あなたには恐れがありますか。上の御言葉を読み、十字架のイエスの愛の中に身を置いてみましょう。



神は独り子イエスをこの世に賜わり、私達の罪を贖い、死から永遠の命に移る道となられました。主の救いの御業はすでに完成され、私達に差し出されているのです。御言葉(聖書)は神の約束です。であるならば、「聖書は私の信仰です」と応答しましょう。さらに「その名を信じた者には神の子となる力を与えた」と、すでに完了している形で言い表しているのです。しかも、「それは血すじによらず、肉の欲、人の欲によらず、ただ、神によって生まれた」(ヨハネ1:12-13)とあります。この世が普通、人に対して求めるような条件を神は求めていません。ただイエスを信じる信仰のみを求めておられます。ところが「自分の民はこれを受け入れなかった」。信じなかったのです。何故でしょう。最初の人アダムはサタンの誘惑に乗り、神を拒絶したのです。神の霊なる命を失い、肉(エゴ)の心になったと聖書は語っています。



神は聖書によって神を現して下さいました。私達人間が神を知り神と出会っていくためには、どのような態度で取り組むべきかを教えているのです。聖書は人間の知識によって研究され書かれたものではなく、神からの啓示によって書かれました。人間の肉の目では神の霊の領域は見えません。神はイスラエルの歴史の現実の中にかかわり、救いの計画を啓示され、律法を文字で与え、その完成としてイエス・キリストの十字架の出来事を目に見える啓示として与えて下さったのです。現在の私達にこの福音が伝わるまでに6000年もかかっています。



現代社会は恐れ、不安、恐怖で満ちています。神の愛が必要です。神の愛とはイエス・キリストです。





























# by oume-akebono | 2017-11-19 16:57 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 3章16節)       大谷唯信牧師



「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」



神は昔は預言者達により、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖達に語られたが、この終りの時には、御子によって、私達に語られたのである。(へブル1:1-2)



神は今のこの時代にも生きていて確実に私達を支え導いておられる。



しかし、現代の多くの人は神については観念的に何となく意識するだけで、はっきりとはわからず、又、わかろうともしないのが一般的ではないだろうか。信仰は日常生活に日々力を与え豊かな命が与えられるのであるが、多くの人にとっては何か特別な宗教的な精神修養をする事であり、普通の自分の人生にはほとんど関係のないものと見ているのではなかろうか。



神は私達に聖書を通して神を現わして下さり、私達人間が神を知り神と出会っていくためにどのような態度をとるべきかを教えて下さっているのである。聖書は人間の知恵や知識、研究等によって書かれたものではない。それらをはるかに超えた「神の霊感によって書かれた」正に神の啓示の言葉である。さらに神の最大な啓示は神の独り子イエス・キリスト御自身であろう。



この聖書によるならば、神を信じるためにはまず神が啓示として賜わって下さったイエス・キリストを信じることである。イエス・キリストを抜きにしては誰も神を信じることは出来ない。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神を現わしたのである」(ヨハネ1:18)と聖書は語る。これら神の啓示として現わされた聖書を私達は「私の信仰」として取り組むのである。書かれている御言葉、そこに秘められているメッセージを信じるべきなのだ。聖書は私達への「神の約束」である。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが救いにあずかる私達には神の力である」(Ⅰコリント1:18)聖書による神の約束を自分の中で現実化する事を願うのであるが、聖書の助けを求めつつ取り組むのである。








































# by oume-akebono | 2017-11-12 16:54 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)         大谷唯信牧師



「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」



「御聖霊さま、私は今あなたと共にいる事を感謝いたします。これからも常に最善に導いて下さることを信じ感謝いたします」


この祈りは寝ても覚めても意識のある限り、祈り、思い、念じ、主と共にある事を心で味わいつつ主を賛美するのだ。嬉しい時、悲しいとき、落ち込んだ時、その現実を受け入れつつ、その実情もそのまま主にお話ししつつ信仰によってこの祈りを捧げる。これを習慣にしてほしい。



これによって主の御臨在(聖霊)に触れ心に平安が与えられるからである。闇の中にあっても心に火が灯り安心と元気が満ちてくるのである。御言葉でも頭で覚え唱えていても教訓程度のものであって力にはならない。聖書研究で御言葉を学んでも同じである。所詮、絵に描いた餅である。御聖霊への信仰を持って御言葉を味わい食べる時、御言葉は文字ではなく生けるパンになって神の力となるのである。これは子供でも初心者でも誰もできる。「わが子よ、わたしの言葉を心にとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さずあなたの心の内に守れ。それはこれを得る者の命であり、また全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流であるからである。(箴言4: 20 27)を読んでほしい。



この世はアダム以来、知識の木の実を食べ発展してきた。どんなに美しくきらびやかに飾ろうがそれは死に向かっていると聖書は最初から語っている。この世は神から離れ人間の肉(エゴ)で積み上げて来た。イエスは「人が生きるのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)と語っている。現代社会を見てほしい。科学文明が発展するほどいよいよ人間が壊れて来たのである。「砂の上に家を建てている「愚かな者」と同じなのだ。御霊によって歩くならば悪の支配から解放され御霊の実ー愛、喜び、平和、寛容)」と真実が恵みとして流れ込んで来るのである。


























# by oume-akebono | 2017-11-05 16:50 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 5章17節)    大谷唯信牧師



「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」



このように誰でもキリストにつながるならば過去の古い自分は去り全く新しい命、キリストの命とされて生きられるのである。どうしたらそのようになるのだろうか。それにはまず自己を中心に生きてきた罪(エゴ)を悔いてイエス・キリストを救い主として信じ(受け入れ)、バプテスマを受ける。ここから新しい生活が始まるのである。「誰でもキリストにあるならば新しく造られたものである。」どんな過去でも罪でも関係なくその人は新しく造られたものとされる。「そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝238)と約束されているのである。



即ち、わたし達がイエスを信じる信仰をもつ時、常にそれを支え導く聖霊が賜物として注がれる事になっているのだ。「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒行伝239



パウロはイエスを迫害する者であったがイエスに出会い回心しその直後聖霊の注ぎによって全く新しくされ伝道者として用いられたのである。ペテロや弟子達もイエスの天に帰られた後は恐れと不安の中で動けなかった状態にあったが聖霊が約束どおり注がれてからは、周りも驚く程に堂々と説教し主の証人として立ったのである。



その力の秘訣は何だったのだろうか。それはただ一つ、聖霊であろう。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝18)である。しかしここで大切な事はどのようにして待ち望んでいたかではなかろうか。パウロも弟子達も共通しているのは、「祈っていた」事だ。「共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」のである。祈りによって生まれる主の臨在感の中にいた事であったのだ。小さな祈りの火をともしていたのである。































# by oume-akebono | 2017-10-29 16:46 | 週報メッセージ

(へブル人への手紙 11章8節)    大谷唯信牧師



「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。



現在の諸教会は、何故低迷しているのか?その答えは実にはっきりしている。それは、御言葉と聖霊によっての、神に対する生きた信仰を失ったからである。現代の教会は見事に、狡猾なサタンの術中にはまっているのだ。即ち、知識と観念の言葉遊びの世界をつくり、自分なりの教会を形成しつつ、神の言葉という永遠の命の話題に興じている、正に富める青年のようである。



これは「善悪を知る知識の木」の実を食べたアダムの路線である。サタンによって眼がさえぎられ、真理が全く見えなくなっている。イスラエルの民の二の舞だ。「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(ヨハネの黙示録 2:4)謙虚にこれを認める所からの再出発が必要だろう。



これは他人事ではない。この世の社会も教育、経済すべてが真実から離れ、この世の闇に迷い込んでいる。肉が基準になっているからだ。私たちも、油断禁物。大きなことは言えない。パウロのように「わたしは罪人のかしらである。」との認識に立ち返って、新しく出発することだ。



幸い私たちの教会には「からし種一粒の信仰」は与えられている。主の恵みによって霊の命があるではないか。キリストの恵みを受けているではないか。だからこそ、新たな志を持って「あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求め」(ペテロの第一の手紙 21-2)ようではないか。



知識は人を驕らせ盲目にする。自らが盲目であると認めた所から霊的な目が開いてくるのだ。「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない、すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言35-6)これこそアブラハムの信仰の歩みである。信仰を知識で止めてはならない。知識は肉の殻となる。このレベルの教会では、魂は救われないことを知ろう。
























# by oume-akebono | 2017-10-22 16:39 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章18節)     大谷唯信牧師



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。」



パウロは「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Ⅰコリント1:18)と神の啓示によって語っている。ならばわたし達も、御言葉を通して神と向き合いその光によって自分の現状と向き合うべきではなかろうか。それは自分も御言の光に照らされて神の啓示(メッセージ)を受けるためである。



本当に御言がわたしにとって神の力になっているのか。「愛には恐れがない」「完全な愛は恐れを取り除く」「わたし達は互いに愛し合おうではないか」。御言葉に聞き、受け入れ従うとはわたし達もよく知っている。しかし実際にわたしは御言葉が自分の中で生き生かされ、以前より解放された勝利の喜びに満ちているのだろうか。その変化が親しい人達に自然に証しとなっていくのであるがどうであろうか。わたし達が主の働きの証人として立たせるために御聖霊が導き背中を押して下さるのだ。それらは初代教会の歩みに見る通りである。「イエス・キリストはきのうも今日も変ることがない」。わたし達の教会にも同じ恵みが与えられているのである。



もし、御言葉が自分の内に実現していないと見るならば正直にその問題点を探すべきであろう。主はそれも必ず示して下さる。その問題の一つは、あの「富める青年」に見る。求めてはいるのだが主の言葉に対して「小さい時から守っています」等と答えてしまう。頭で理解し知識で知っている正解を出しただけで現実の自分とは向き合っていないのである。誰にも起る事だ。



私達は愛そうと願い、又、愛している時ですら相手に対し反感や嫌悪、時には憎しみすら心の奥に秘かに感じる者だ。人はどんなに愛しても一分のすきもなくぴったりと一致する事はない。期待しても要求しても人間がちがうのだ。だから愛し合う(認める、許す、尊敬)。それ以上は支配しようとするエゴ()にすり替ってしまうのだ。聖霊に拠り頼め!そうすれば出来る!他に道はない。









































# by oume-akebono | 2017-10-15 16:43 | 週報メッセージ

10月8日の礼拝後の昼食は、毎年恒例のバーベキュー!でした。
以前は振起日バーベキューとして夏休み最後の主日に行っていましたが、
数年前から10月開催になり、規模も内容もパワーアップしている感じです110.png
欠かせない人気メニューは、北海道出身の副牧師自ら腕によりを掛けて作るちゃんちゃん焼き
半身の鮭を2つ焼きます165.png
そして今年人気だったのが、デザートのマシュマロ。子ども達も、自分で焼きました。
今回の参加者は70名を超え過去最大!となりましたが、長年の経験からみんなの手際も良く166.png
大人も子どもも楽しい交わりの時173.pngとなりました。
主にある家族であることを、いつもとは違う雰囲気のなかで実感です。
hallelujah!
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# by oume-akebono | 2017-10-08 20:52 | 行事

(コリント人への第一の手紙 2章8節) 大谷唯信牧師



「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。」



「この知恵」とは世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれ、隠された奥義としての神の知恵である。それは十字架のイエス・キリストの事だ。しかも生まれながらの人は肉(エゴ)で生きているので、神からの霊のことは分からない。何故なら、肉と霊とでは周波数が違うからである。ラジオでも、周波数が異なるならその局の放送は聞こえないではないか。肉と霊とは周波数が違うのだ。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っている者は、ひとりもいなかった。」(Ⅰコリント28)のはそのためである。



パリサイ人パウロもそうであったが、彼は、700年も前の預言者イザヤの「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自身を愛する者たちのために備えられた」との預言が、時が至って成就したことを御霊の啓示で知らされ、さらに伝道者としての召命を受け、立たせられ、多くの実が結ばれ残ったのである。



御霊の周波数に合わせるには、肉の思いでは全く駄目で通じないのだ。「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。」(Ⅰコリント121)と御言葉は語る。ではどうすればよいのか。パウロが示されたことは、コリント人への第一の手紙1章12~30節に記されている。即ち、神はこの世の愚かな者、無きに等しい者を敢えて選び、教会を誕生させ、全世界に福音を伝える使命をそれらの教会に託されたことを知っていくのである。



今やキリストの福音は全世界に伝えられ、この青梅の地にも福音を届けてくださった。神は青梅あけぼのキリスト教会として私たちを召し、永遠のいのちの中にある「神の家族」として下さったのである。私たちの出会いは単なる偶然や自分の思いではなく、それらを超えた神の導きであるのだ。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そしてあなたがたを立てた。豊かに実を結ぶため…」(ヨハネ1516-)と主は語られる。私たちは二千年の教会の歴史の恵みの上に立っているのである。



















# by oume-akebono | 2017-10-08 13:09