2017年 09月 17日
9月17日 御言葉を聞いて悟れ
(マタイによる福音書 13章23節) 大谷唯信牧師
「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」
教会の成長と私達の成長は一つである。これを受けるには私達が日々に祈りの中で御言葉を信じ実践し生活の中で味わい、「この御言葉は本当だ」と確信を持って言い切れるようになる事だ。それは自分の小さな考えや、サタンの巧妙さに陥らないためである。サタンの目的は一つ、私達をキリストから、教会から離れさせ信仰を失わせる事だ。
御言には私達を新しく造り変える力がある。自分の心の奥に御言を落とし込もう。自分の思いの中では常に霊と肉とが戦っている。サタンは肉に語りかけ肉の欲する方へ導く。肉の語りかけはわかりやすい。生まれながらの肉の五感で理解できるからである。自分の欲望、興味にストレートにつながっている。しかも肉は「目には目を、歯には歯を」と肉特有の報復の世界となる。肉では平和は造れない。
御言は語る、「肉の働きは敵意、争い、そねみ、怒りのたぐい」(ガラ5:20)と。今の世界情勢が正にこれである。互いに正義、平和を求めながら口汚くののしり合っている。日本もこれに加わっているのだから情けない。「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互いに滅ぼされてしまうだろう」(ガラ5:15)と警告しておられる。これらの国の指導者はここで戦争が起きてしまったら世界に対して本当に責任が取れるのだろうか。本当に相手国に対して本気で謙虚に向き合っているのだろうか。全くそのようには見えない。自分の権勢を誇り相手を馬鹿にして…。しかし、これが私達の高慢な姿の本音である。何千年たっても肉は変わらないのだ。変えられないのである。
肉は肉、滅びしかない。 … どうしたらよいのだろう。御言に生きるのだ。御言には御霊が働いておられる。御霊によって歩くとは御言を信じ神の臨在を信じ、従う。平安はここから来るのだ。
2017年 09月 10日
9月10日 バプテスマの恵み
(コロサイ人への手紙 2章12節) 大谷唯信牧師
「あなたがたはバプテスマを受けて彼(キリスト)と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」
バプテスマはキリストを信じる信仰の出来事として見るならば、単なるセレモニー以上のものである。神が天地を創造した奇跡に匹敵するほどの大きな出来事なのだ。「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)。即ち、天地を創造したと同時に人の心に永遠の天地を包み込む広大無変な思いを与えられたのである。「思う思い」とは永遠を思う「信仰」のことである。
人の心は汚れに汚れ目先のこと、自分の手で触れたものしか見えなくなってしまっている。何と小さく疑い深く狭い存在になっている事か。自分の小さな世界で独りぼっちのお山の大将である。本音は自信もなく寂しいものである。意味のない虚勢に生きているだけだ。だから「目を覚ませ」と聖書は語りかける。「愚かな者は心のうちに『神はいない』と言う」(詩篇53:1)何故か?「清くならなければ、誰も主を見ることはできない。すべての人と相和し、自ら清くなるように努めなさい」(へブル12:14)「心の清い人たちは神を見るであろう」(マタイ5:8)と聖書は語っているのである。
バプテスマを受けるという行動はイエスを救い主として信じる自分の信仰告白なのである。「心で信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)つまり信じた事を口で告白し公にする、宣言する、この行動が伴う事が大切なのである。
バプテスマは肉から霊への新しい命の誕生であり新しい出発である。だからと言って急に完全になるのではない。神の子とされ永遠の命の世界に誕生したのだが霊的には赤ちゃんである。教会の交わりの中で成長し主の器、証し人として成長するのである。同時にサタンの働きは激しくなるので甘く見てはいけない。狙いは一つ、それは私達をイエスと教会から引き離す事だ。暖かく正しい論理で迫るから気をつけよう。
2017年 09月 03日
9月3日 主の臨在感を味わう
(ガラテヤ人への手紙 5章16節) 大谷唯信牧師
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」
現代はいよいよ御霊によって生きる事が現実的な課題となって来た。人間は誰でも基本的には肉(自己中心)の存在であるから教育・文化が進んでも人間の欲望・犯罪もますます悪くなるのを見る。エゴは自分の欲望が満たされる時幸せを感じ、そうでないと不安を感じたりいらだったりする。要は人は何でも自分の思い通りかそれ以上にならないと面白くないという一面がある。
私達は自分なりの信仰ではなく常に御言葉に立ち基本に立とうではないか。
御言葉は、もし御霊によって歩くならば、決して肉の欲を満たす事はないと語っている。
アブラハムは「行く先を知らないで出て行った」とある。ただ神の招きに従った。神の最善の導きを信じて従うののである。この時、自分の中にある不安に負けている人がいる。行動を起こす前からすでに負けているのだ。自分の中にある自信、自分の力に頼っているからだ。聖霊がその時、その時、必ず働いて勝利する事が出来ると心の奥で確信する事が大切なのである。朝出かける時、人と会う時、証しをする時・・・。行く先を知らないで出て行く。アブラハムは、一歩先の事はどうなるかわからないけれど、主が共にいて守って下さるという一点には疑いや不安をやめて主に従ったのである。彼を支えたのは知識や経験ではなく神と共にあると言う臨在感だ。
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」(ヨハネ14:18/16)「それは真理の御霊である」(ヨハネ14:17)と主は語っておられる。
御霊によって主との臨在感を期待し味わってみよう。慣れて来ると孤独感、寂しさはなくなりどのような状況でも心の内は平安で暖かく御霊の実が味わえる。主が共に居られる事が日常の実感となるのである。
2017年 08月 27日
8月27日 私たちは生ける教会
(ヨハネによる福音書 15章5節) 大谷唯信牧師
「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」
私たちの「教会の祈り」は最初が「常にまず自分の内側を整える」である。内側を整えるとはまず主とつながることだ。そうすれば神の国(支配)の中にいることになる。「自分は今、キリストにつながっていますか?」と自分に問いかけてみよう。その時、自分の姿勢の現実に気づかされる。
その思いの中で、「私はつながっています。」と信仰で宣言し、同時に御聖霊の働きによって、神の御臨在に包まれている平安を信仰で味わいつつ、主を見上げるのである。すべてを信仰の出来事にするのだ。現実がどんなに苦しく、自分の期待と違っていても、不平はやめて「私は主につながっています」と宣言していくのである。
エジプトを出たイスラエル人の、40年間の荒野の旅は、正に不平不満、不信仰の旅であった。それは現在の不安なこの世の姿でもある。不信仰には必ず恐れが伴う。神はモーセを通し民に語る。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。…主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。(出エジプト記14:13)
不信仰はどうしても困難を通して神を見る。信仰は神を通して困難を見る。信仰は神の側、御国の中に居らせ、対岸の火事を見るように、出来事を見させてくださる。この世に居りながら、嵐の中であっても、神の支配の中で平安に満たされているのである。それは、「わたしは主につながっています」との信仰宣言によって与えられる恵みである。
その与えられた平安、知恵、希望が世の人から見ると不思議に見え、結果的に「世の光、地の塩」としての存在にされていくのである。しかし律法もそうであったように、福音も聖書の言葉も、生きた信仰によって霊の命を吹き込まなければ、単なる文字となり、「絵に描いた餅」になってしまう。感謝なことに私たちは生ける教会であることを覚えよう。
2017年 08月 20日
8月20日 教会の現状と使命
(コリント人への第二の手紙 3章6節) 大谷唯信牧師
「神はわたし達に力を与えて、新しい契約に仕える者とされた。それは文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」
今、私達の連盟の全国諸教会が驚くほどに疲弊している。323もある伝道所・教会のうち昨年一年間で受浸者0人が193教会、礼拝出席者平均人数は40人以下となった。私達の教会は祈りの目標から見るとまだまだであるが、受浸者はその前年と同じく9人、礼拝出席は123人となった。これは全くの神の恵みであり御聖霊の働きに他ならない。心から主に感謝しよう。
諸教会の多くがなぜ疲弊してしまうのか。怠けているのだろうか。そんな事はない。皆、真面目で熱心に祈り取り組んでいる様子を見る。連盟を通して送られて来るバプテスト誌、宣教研究所からの宣研ニュースレターをはじめ、その他の報告、活動等を見ると、その時々の課題を取り上げ、正にレベルも高く活動的な精鋭部隊のようにも感じる。目を通すごとに教えられ学ばされる事が実に多い。しかし私の理解不足と思うが、現実の教会形成、教会の成長に対してとなると、ほとんど力にはならない。無味乾燥であり「だから何よ?」との問いが出てしまうのだ。強くなりたいと取り組んでいる土俵の力士に、相撲の成り立ちや歴史を聞かせているようなものに見えるのである。これは愚かな一牧師の感想であるからどうでも良いのだが…。ここまで諸教会が疲弊している現実を見るならば、もうそろそろ言葉遊びはやめて本気で御言葉に取り組む必要があるのでは、と思うのである。
一番の原因は、自覚のないままいつの間にか霊が肉になり、御言葉が文字になってはいないかということである。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」のだ。エデンの園には、「善悪を知る知識の木」と「命の木」を神は植えられた。「知識の木は死に至るので食べるな」と言われた。この世は知識・情報を求める。死への道だ。故に教会は命の木から命を受け、死せるこの世にキリストの命を吹き込むことが使命なのだが…。
2017年 08月 13日
8月13日 二本の木、どちらを選ぶか
(箴言 3章5-6節) 大谷唯信牧師
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
またまたアメリカの大統領は北朝鮮に対し、互いに相手を非難し、この時代に武力で牽制し、火の海にしてやるとの野次を飛ばす幼稚な行動で世界を騒がせ、自らの愚かさを得意気に現している。人間としての力以上の権限、地位、富を得たりすると人間は崩れると言われるが、その見本のようなものだ。
こういうときこそ日本は同盟国、おともだち等と言うなら、もっと毅然として世界人類の平和のために両者の中に飛び込み、教え、悟らせ、心に訴え、両者に責任と感動を与えるような態度や言葉一つもないのだろうか。被爆国の日本だからこそ出来ること、しなければならないことがある筈である。その立場にいる指導者達は、日本がこの歴史の現実から世界のために与えられている日本の立場、責任、使命の重さを感じているのだろうか。世界の人々の悲しみの声、世界の人々の平和への道筋を見ようとしているのか、否である。それぞれが個人主義に陥り自分の立場、自分の主義、自分の党派、自分の成功、栄誉…自分を守るために汲々としており、浮き足立ち、足が地に着いていないのではないか。
「少年(青年)よ、大志を抱け!」は有名な言葉だ。北大の前身、札幌農学校の宣教師の言葉である。「大きな志を持って」であるが、本来の言葉は「キリストにあって」、「キリストによって」の言葉が入っていたと言われている。キリストなしの大志では単なる野望になり、個人主義のエゴを脱するどころか拡大するからだ。エゴは世界に野火のようにすでに拡がっている。クラーク師はキリストを伝えたのだ。後の人はこれを消した。これが世の常である。今やエゴの炎が全世界に拡がっている。第1のものを捨てたからだ。冒頭の御言葉も捨ててはいけない第1のものを示しているのだが、どうであろう。第1のものとはキリストである。知識の木といのちの木は、常に目の前にあるのだ。
2017年 08月 06日
8月6日 成長する教会
(エペソ人への手紙 4章15-16節) 大谷唯信牧師
「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」
健康的に成長しているキリストの教会の姿がここにある。もし、キリストにつながっているなら必ず実を豊かに結ぶのが教会である。同時に「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」と自然の命の営みを通して教会の霊的成長の命の原則を示している。生命は教理でも哲学でもなく教訓や教えでもない。教会の生ける命はキリストの御霊以外にはない。御霊によって歩んでいる教会はどのような状況にあっても豊かに成長する。私達はそう固く信じている。何故なら使徒行伝にある初代教会の歩みを見るがいい。あのペテロやパウロがどのようにして変えられたのか。思いを馳せる時今でも新しく多くの学び、発見、励まし、慰めを受ける。
聖書中の人物からは不思議に思えるほどに新しく教えられ、実に新鮮なのである。
共通している事が一つある。それは、皆、主に出会っている事だ。わたしも主に出会った。50年以上も前になる。以来、命の泉が内から湧き支えられている。自分自身を見ると不忠実そのもので勿体なく恥ずかしいのであるが、今やそう言うものを超えて、実に私達の教会が新しい霊の風に吹かれて主の働きを受けている動きが見え涙が止まらなくなった…どうした事だろう。教会の方々のいろいろな思い、喜び、悲しみ、祈りが霊に迫ってくる…どうしたらよいのだろう。」
「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5-6)
「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まる所にはわたしもその中にいる」(マタイ15:20)
全くその通りであった。先週のC.S.キャンプの主題聖句だった。「主と出会う」これを確かなものにしようではないか。
2017年 08月 05日
Akebono CS Summer Camp 2017


すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。



2017年 07月 30日
7月30日 生ける信仰をもって
(箴言 3章5-6節) 大谷唯信牧師
「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。
全ての道に主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。」
信仰生活は宇宙ロケットに似ている。宇宙の軌道に乗るまでは、大きな燃料タンクをいっぱいにして昇って行くが、軌道に乗れば身軽になって宇宙の軌道の流れに乗り、管制室の誘導によって前進する。交信が途絶えれば、宇宙の藻屑にもなりかねない。
信仰生活でも求道中はまだ自力で燃料を燃やし、何とか頑張る。これはまだこの世で生きる普通の人の歩み方である。当然、この世の知識、技術等々に頼ってしまうのだが、肝心な生ける命となる燃料の確保、道を間違わないように、御言葉に向かうが一時もハンドルから手を離せない。自分の力に頼るからである。信仰は自分に絶望したところから始まる。絶望の中で主を仰ぎ、絶望の自分を主に投げ捨てるのだ。その時、神の軌道に乗っていることがわかる。
イエスは「思いわずらうな、天の父はあなた方の必要をことごとくご存知である。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるだろう」(マタイによる福音書6:33)と約束しておられる事も心に見えてくる。
冒頭の御言葉でもわかるように、私たちがすることと、神が私たちにしてくださることとを明確に見定める必要があろう。「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ」。これは私たちがすることである。教訓では昔のイスラエル人の失敗と同じく、律法主義になってしまう。私たちは御言葉一つ一つに取り組むのも「イエスの御名によって」の信仰で、「主を呼び求め、イエス様との出来事」として取り組むのである。
また自分の単独の出来事ではなく、キリストの体なる「私たち教会の出来事」として取り組むなら、祝福と霊的成長はさらに大きくなる。「生ける信仰は望んでいる事柄を確信し」とある。心をつくして主を信頼し、確信に至るまで主に呼ばわり、祈り信じて歩むのである。
2017年 07月 23日
7月23日 信仰の確信に立つ
(ヘブル人への手紙 3章7-8節) 大谷唯信牧師
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」
私達の日々の信仰生活は荒野におけるイスラエルの民の歩みと、その課題は同じとも言えよう。だからこそ神は独り子イエスの十字架の死と復活によってすべての悪と死に勝利し、私達全人類の救いとなって下さった。二千年前の十字架の出来事はその場その場の出来事に留まらず神の霊的世界では驚く事にこの世の私達の過去から永遠の未来すべてを包み込み、常に「永遠の今」の出来事として今の私達に救いの道を開き、すでに完成して下さっておられるのだ。
私達の現実のこの社会には善悪こもごもいろいろあるがすべてに神からの意味があり一つ一つの日常の出来事の中に神の救いと導きが確実に示されている。それを解き明かし示しておられるのが聖書である。すべての出来事に神の意味があり神との出会いがある事がわかるのだ。
故に聖書は「今は恵みの時、救いの日である」(Ⅱコリ6:2)と語る。聖書は救いを示した神からの啓示の書だ。神はこの聖書を私達教会に与えられた。私達を神からの福音の証人にするためである。神は御自身の人への熱烈な愛を聖書に語っておられる。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)神の私達への切実な思いである。神の命がけの救いの福音を私達教会は託されたのである。「わたしがあなたがたを選んだ」と語られる。
「心をかたくなにしてはいけない」。これは私達が一番落ち入りやすい不信仰からの罪だからだ。何故すぐに不信仰になるのだろう。「信仰は望んでいる事柄を確信し・・・」(ヘブル11:1)とあるが、望んでいる願い事で終わっているからだ。望んだならそれに「確信」と言う確固とした決断でしっかり押さえ込むのだ。信仰は願いを確信で釘付けにする。確信とはもう疑わないと言う信仰宣言だ。そこに御聖霊が働き、御霊の実となってくださるのである。
2017年 07月 16日
7月16日 信仰の敵――惰性
(コリント人への第一の手紙 1章26-27節) 大谷唯信牧師
「あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。神は知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び・・・無きに等しい者を、あえて選ばれた」
信仰生活で一番注意しなければならない事がある。それは惰性である。必死に戦っている時には起こらない。慣れてきた時、順調になっている時、安心している時である。しかも本人は気付かないのが特徴であるから困るのだ。気づいた時には遅い。
「あなたはなまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」(黙示録3:16)とキリストがラオデキヤの教会に語っている。エペソの教会には「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこであなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい」と言われている。
マンネリは必ず来る。では、そういう時わたし達はどうしたらよいのだろうか。キリストは語られている、「あなたは自分では富んでいる、豊かになった、何の不自由もないもないと言っているが、実はあなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない・・・・・・すべてわたしの愛している者を、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である。」(Ⅰコリント1:18)との有名な御言葉がある。本当に御言葉が神の力になっているだろうか。滅び行く者と同じく愚かとは言わないまでも、単なるクリスチャン言葉であり、心に何の喜びも影響も与えない死んだ文字になってはいないだろうか。「十字架」と思うだけで「我が罪のためなり」と胸熱く思う心は今あるのか!慣れは命を奪うのだ。
日々の御言葉を通しての祈りと悔い改めによる主との交わりこそが心を開く。
「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4:23)と主は語られる。
2017年 07月 09日
7月9日 信生ける仰の出発点
(ガラテヤ人への手紙 2:19-20) 大谷唯信牧師
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、 わたしのうちに生きておられるのである。」
パウロは徹底して神の前に自分の罪と向き合い、取り組み、自分を支配し主張し自分を守ろうとするエゴの殻を粉々に砕き、それを投げ捨てた。あの誇り高い彼が空っぽになって十字架のイエスに身を投げ出しているのである。
霊的成長がなく、また求めることもない信仰生活は、すでに死にかかっていると言える。これは普通自覚がないのが特徴だが、逆に自覚し取り組めば、凄い成長にもつながるチャンスとも言えよう。要は肉を取り除き、御霊に満たされるための霊的作業が必要なのだが、本人が気付かない場合が多い。「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」(黙示録3:17)
ペテロは、自分の中に死に値する程の罪にとりこにされている現実を見、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ7:24)と罪のどん底で主を見上げたその瞬間「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」(ローマ7:25)と歓喜の叫びを上げる者とされたのである。ダビデも「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなた(主)がわたしと共におられるからです。」(詩23:4)と語っている。この死の陰の谷が深いほど喜びと確信は大きく確かなものとされる。
この信仰は御霊の実を与えて下さる。肉の働き(ガラテヤ5:19-)は御霊の実に変えられ、豊かな実となって私達を導いて下さる。心の砕かれた者への恵みであり、肉のように自分の働きではない。上からの即ちブドウの幹につながっている者への賜物であり信仰の賜物である。たとえ死の陰の谷となっても、つぶやき、疑い、不平、不満ではなく九つの御霊の実が与えられる。
2017年 07月 02日
7月2日 信仰によって御霊の道を歩もう
(マルコによる福音書 11章24節) 大谷唯信牧師
「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」
これはキリスト者に与えられている信仰による恵みの法則だ。私達の教会もさらに躍進し成長する時期に来ていると思う。
さて計画を進めるに当って一般的に考えられているのが①現状把握、②目標設定と計画、③実行、④進行状況のチェック、⑤改善計画と実施、等々がある。しかしここで見られる多くの問題点はすでに②で起きてしまう。熱心に全体で統一し行おうとする程、いろいろ抵抗が出て来てギスギスしてくるのである。目標が大きく緻密な計画になるほど抵抗は大きくなる。結局、会社命令等の力で圧していかざるを得なくなるのが現状だ。
何故そうなるのだろう。それは目標に取り組むほどに「あなたはそうなってはいない!」と言うメッセージにぶつかるのである。目標は手の届かない山の上に遠のいてしまうのだ。一部の人が頑張り、あとの多くは傍観者にならざるを得なくなる法則なのだ。
イエスの言われたのはもう一つの法則である。それは信仰の法則である。企業で実験するのは難しいが、教会では実験的に取り組む価値はあると思う。それはこの世の肉の法則ではなく信仰による霊(命)の法則である。即ち、目標を願い祈ったならば信仰によってすでにかなえられていると信じた地点からの出発とする。肉による目標は近づいているようではあるが溝が深く問題点ばかりで引き離されている場合が多いのだ。
ところが信ずる信仰によって「なんでも祈り求める事はすでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」との御言葉に取り組んでみると一人ひとりが思いを超えた前向きの力の法則に触れる事になるのである。問題を見るのではなく主の御業を見る事が出来る。否定的な思いが逆境になるほど強力な力と信仰による宣言―「私達は大丈夫!」の力に触れるのである。イエスに触れるからだ。すでに私達はこの道を歩み出している事を知ろう。
2017年 06月 25日
6月25日 霊によって歩く秘訣
(ローマ人への手紙 8章12節) 大谷唯信牧師
「わたし達は、果たすべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を負っているのではない」
私達はクリスチャンになってもその信仰生活を肉の力で押し進めている事が多いのではなかろうか。信仰は霊的な出来事である。それなのに肉の力で維持するとなるとどうであろう。自分の調子の良い時、気分が乗った時には快調でどんな奉仕でも生き生きと楽しく出来る。労する事そのものが楽しく感謝である。自分が肉の力でやっている等とは到底思えない。しかし自分の限度を超えて来ると肉の部分が不満、つぶやきの思いが出て来るのだ。その奉仕、働きが、又、日常生活等もいつの間にか肉の働きに変っていってしまう。熱心であっても真面目であっても同じである。肉とは自己中心の自我の心である。油断するとクリスチャンのベテランの方でもなるから気をつけねばならない。
パウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たす事はない」(ガラ5:16)と述べた。しかしそのような思いで取り組んでも、思うようにはいかないと秘かに悩んでいる方もおられると思う。
どうすればよいのだろう。
一つ言える事は基本的な事であるが、「イェスの名」によって取り組む事である。祈りも奉仕も新ためて意識して「イェスの名」によってするのだ。イェスの名によってしなければすべては無効なのである。
「わたしの名によって願う事は何でもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。(ヨハネ14:13)
「この人による以外に救いはない。私達を救いうる名はこれを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」(使徒4:12)
「信じない者はすでに裁かれている。神のひとり子の名を信じないからである」(ヨハネ3:18)。神の御子の名はイェスであり本来父の名であった。
その名を御子に与え権威を授けられたのである。(ヨハネ17:11-12)。故にすべての事を「イェスの名によって」取り組むべきなのである。
2017年 06月 18日
6月18日 ヤコブの新しい出発
(創世記 32章24節) 大谷唯信牧師
「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。」
日々、聖霊の導きの中で歩んでいる事を認めよう。聖霊なしの信仰は頭による知識と理解だけに頼り力を失う。そうなると聖霊も祈りも初めの感動も失せ、信仰も無味乾燥となり信仰生活が重荷とさえ思えるようになって来る。孤独で暗く無気力になったり批判的になったりしてくるものだ。しかしこれは霊的に次の成長段階に行くべきサインでもある事を覚えよう。小さなヤドカリですら身体の成長と共に大きい殻に替えていくのである。神は時に自分を支えているあらゆるものを取りはずしていく。自分の能力、得意とする賜物、仕事、家庭、健康等々・・・、自分を支えているはずの信仰でさえも危機的状態にしてゆさぶるのである。全て何もない所まで落ち込む。
「ヤコブはひとりあとに残った」とある。彼は賢く、神の特別な祝福を受けて何をやっても成功し莫大な財産と家庭を得て共に故郷に帰ろうとしていた。途中、兄エサウが自分を殺そうと待ち受けている事を知り、恐れ考え兄の心を和らげるため壮大な貢ぎ物を馬車で一群、二群、三群と先に行かせ、最後に妻と子どもを行かせたが、それでも恐れは消えずひとりだけヤボクの渡しに残ったのである。家族やすべての財産からも切り離され恐れと不安から自信もプライドも消え闇の中にひとりぼっちで死の恐怖の中に取り残されたのだ。
ところがこの最悪の晩こそが、最高の栄光ある晩に変えられたのである。「ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。」とある。神との出会いが起きたのだ。彼は初めて真正面から自分の実情、苦しみ、悲しみ、弱さ、高慢、罪、自分の存在そのもので神に叫び、求め、うめき、悔い改め「主よ、わたをあわれんでください。祝福して下さるまではあなたを離しません」と訴えたのである。これが神と向き合う事であり自分と向き合う事なのだ。不平、不満、反発とあるうちはこのような真の対決は出てこない。神は聖霊によって常に対決を促している。自分を捨てる者が得るのだ。