(詩篇 42篇 5節)        大谷唯信牧師



「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」



人は誰で苦境に立たせられる時がある。思わぬ出来事に悲しみ、絶望にうちひしがれる時があるものだ。弟子達はイエスと共にガリラヤ湖にて船に乗り向こう岸に渡ろうとしていた。ところが急に嵐に見舞われ強風と高波にもまれ、船が沈みそうになった(マタイ4:35-41)。私達の人生に現実を語っているのである。その時イエスとは眠っておられた。弟子達は恐怖のあまりイエスのもとへ走り寄り、イエスを揺り起こし「主よ、お助け下さい。わたし達は死にそうです」と叫んだ。



主と共にいながら主への信仰は全くなかったのである。主のもとへ走り寄り主に頼ったことは良かった。しかし主の体に触れ主に寄り頼みながらも主への信仰、即ち主が助けて下さるとの信仰はなかったのである。だから泣き叫ぶ。イエスは波を静め言われた。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」見るまでは信じていなかったからである。



わたし達もこう言う事はないだろうか。求め、寄り頼んでいるのだが信仰がない。願ってはいるのだが信仰を持っていない。主と共にいながらも独りぼっちでいる。主から見放されている、主から遠くにいる、無視されていると感じてしまう。



何故そうなるのか。信仰を感情の上に乗せているからである。信仰は意志であり決断である。愛も同じである。気分やその時々の感情ではない。それは②の領域の肉に立っているのだ。信仰、希望、愛は④の領域、霊的決断である。



アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。サラの胎が不妊であるのを認めながらも信仰は弱らなかった」のである。ダビデは失意の中で「わが魂よ、なにゆえうなだれるのか」と自分に呼びかけ「神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神をほめたたえる」と祈ったことを覚えよう。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
























# by oume-akebono | 2018-07-29 17:58 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 24章 5~6節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」



何と象徴的な奥深い言葉であろうか。迫害下でも真剣にキリストを求めているのに、いつの間にか「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」と言われてしまう状態になっているのである。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」(ローマ人への手紙85)これは普遍的な命の原理である。即ち、霊を求め従っているつもりでも、そこに「敵意、争い、そねみ、怒り・・・」(ガラテヤ人への手紙520)等の思いが出て来るなら、実際は肉に立っているのだ。私達はこの現実を正直に直視しなければならない。



「肉に従う」のは無理からぬ事とも思う。何故ならこの世はすべて肉に支配されているからだ。私達はこの中で生まれ、この中で教育され、今に至っている。私達は肉そのものになっているのだ。肉とは自分中心であり、自分の理解、自分の考え、自分の納得、自分の好き嫌いの世界だ。正しさに於いても、温かさ美しさに於いても自分の思う通りを求める。その根拠は自分の人生経験、自分の知識等であり、結局は自分なのだ。この世はその積み重ねで成り立っている。



これは決して悪い事ではない。当然の事だろう。しかしこれで霊なるキリストを求めてゆくと、「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」となってしまう。彼らは自分なりに立って求めているのだ。「その方はここにはおられない」。何と言う事か。おられるはずのキリストがそこにおられない。キリスト不在なのである。



「よみがえられたのだ」。と聞いた時、使徒たちですら「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」とある。勿論、使徒たちはイエスを愛し信じていたであろう。しかし、「それが愚かな話のように思われて」なのだ。これこそ自分なりの愛であり、自分なりの「信じる」であったのである。



肉に従う者は肉のことを思い」となる。「霊に従う者は霊のことを思う」。切り替えるのだ。日々、自分なりを捨て砕かれて主を仰ぎ主につながる思いを持ち続けよう。これが「霊と真をもって礼拝する」ことになる。これがないと見かけは立派でも、キリスト不在の教会になってしまう。





























# by oume-akebono | 2018-07-22 17:54 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章15節)          大谷唯信牧師



愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである



これは私達教 会に与えられている神からの成長の約束である。何と感謝なことか。勿論、成長させて下さるのは神御自身である。さらに続いて私達教会への注意が語られている。「私達はもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教えの風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」(エペ4:14)と言うのである。



この世は肉が支配している。教会の内も外も常に悪の霊に攻められている事を覚えよう。決して油断してはならないのだ。悪魔は有能で熱心な人を利用し、その熱心とその働きから不平、不満を起こさせ問題に発展させるから油断大敵なのだ。私達の教会はこれから主にあって素晴らしく成長する。となると、今いる私達が基礎となるわけではないか。どこの教会を見ても最初の基礎となった人達の信仰の有り方はその後の教会に良くも悪くも大きな影響を与えている。それだけに私達は心してキリストを土台として、キリストを中心に生き生きした信仰生活をおくる必要がある。



この世で健全な信仰を保つには教会なしでは在り得ない教会にしっかりつながり外敵から守られ、教会の交わりの中で教会を建て上げていく働き手になっていく程に神の祝福が流れ込み豊かな成長の恵みにあずかる事になる。これがキリストの成長させる方法なのだ。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハ15:5)「御霊の実」なのだ。礼拝、みことば、祈りを生活から奪われないようにしよう。



そうするにはどうしたらよいのだろうか。イェスは最も基本的な事を教えておられる。あらゆるクリスチャン生活の原動力となるものである。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ」(マタ22:37)である。誰もがわかっているようでやっていないのである。もし、やれば、そこにいるだけで神の臨在を感じさせる人になるであろう。
























# by oume-akebono | 2018-07-15 17:49 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章15節)        大谷唯信牧師



「わたしたちは愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」



放蕩息子の兄は完全なまでに父に忠実に仕え模範的な青年でした。しかし、弟が戻り歓迎されているのを見て腹を立て、家に入ることさえできなかったのです。人が心から謙遜になるのは難しいのです。努力している人ほど難しい。頑張るその自意識の中におごりが入り込むからです。しかも本人はそのおごりには全く気がつかず、自分の謙遜にはしっかりと意識します。努力で頑張っているからでしょう。すると人の高慢さが気になり、許せなくなったりするのです。「私はこんなに謙遜になっているのに、あなたは・・・」のパターンです。



本来、謙遜は自分の謙遜を知りません。むしろ自分の未熟さ、高慢さに痛みを覚え、他を批判するどころか自分の他への申し訳なさでいっぱいです。努力は努力でよいのですが知識と同じく高慢になります。自分の罪深さに心砕けた人のみに開かれる世界なのです。本心に立ち返った放蕩息子は自我を砕かれました。



「父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました、生意気でした、甘えていました」と心底気づいたのです。自己中心の心が砕かれると見栄、プライド、照れ、恥ずかしさ、弱いとか強いとかのこだわりも吹き飛びます。ただ、申し訳なさと感謝とそれでも生かされている喜びと感動が自然に湧き起こるのです。自我が砕かれた本心の姿がこれです。



誰でもこの砕かれた経験、理屈抜きの心の経験をしなければ本当の自分の人生は深まりません。頭ではなく、霊の心で信じイエスを迎え、キリストと共に十字架に死に主と共に生きる信仰に立つことです。



今は御聖霊の時代です。聖霊が慰め、力を与え支えます。聖霊への信仰をしっかり持ちましょう。御言葉には聖霊が満ちています。「互いにしのび合い、もし責むべきことがあれば許し合いなさい。」これが教会に満ちる時、教会は豊かな成長の恵みを賜り、さらに大いなる道が開かれることでしょう。
























# by oume-akebono | 2018-07-08 17:45 | 週報メッセージ

7月1日 霊に燃え

(ローマ人への手紙 12章 11~12節)       大谷唯信牧師



「霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」



神はすべての人にからだを与えたように霊を与えて下さっています。「神は土のちりで人を造り、命の息(霊)を吹き入れられた。そこで人は生きた(魂=良心を持つ)者となった」(創3:7)のです。神を信じない者にも同じく霊はあるのです。しかし創造主の神との断絶によって霊のパイプは切れ、霊は死んだような状態になってしまったのです。本来は神との命の交流を持って神と共に生きるはずが神を失い自分だけで生きる自己中心(肉)となってしまいました。この断絶の状態を罪と言い、この罪の支配によって①②③の領域すべてがエゴとなり、いわゆる肉の働きとなって生きる、それが普通になってしまったのです。かろうじて魂なる良心は生きていますから社会常識から得た善悪の判断はある程度は出来ます。社会秩序はこれで保たれる筈ですが絶対的なものではありません。文化や状況によって心は変化するからです。しかし、私達、主を信じる心の奥の奥にある霊は神の命とつながり神の絶対的な愛に触れる事ができる唯一の領域です。



もう一度整理してみましょう。頭は生まれた後に学び、理解する知的領域。心は喜び、悲しみ等の情動的領域。霊は信ずる領域。魂は霊と心の間にあり、両者の働きを持ち、両者を結びつける大切な役割があります。しかし、ほとんどが霊ではなく肉の心の中に取り込まれているのが現状です。ですから心(魂)では御言葉を聞き、心は響き信じようと動くのですが、肉にどっぷり漬け込まれているとその時だけ知的魂となって拒否してしまうのです。魂は霊の領域の事を一番先に信じて心や頭に流してやらなければならないのですができません。砕かれていないからです。霊以外の領域は肉です。霊の領域を深めるには御子を信ずる他にはありません。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」又「肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安である」(ロマ8:5-6)です。もう一度冒頭の御言葉を味わい、祈り、信じ霊の中に受けとめましょう。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  

























# by oume-akebono | 2018-07-01 17:21 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10-11節)     大谷唯信牧師



「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい。」



パウロはクリスチャンに「強くなれ!」と言っています。決して「弱くてよい」とは言ってはいません。しかし「誰でも困難にぶつかった時、わたしも弱らないでおれようか」と正直に自分を見ています。自分の弱さを誰よりも知っているのです。そこで祈りました。三度もです。その時、主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との啓示を受けたのです。心の内に声を聞いたのです。



「パウロはいいな!わたしはそんなこと言われたことはない」等の思いもあるかもしれません。しかし特別なことではなく、何かを本当に困って切実に求めるものには、何らかの気付き、思い、人の声、言葉等々からひらめきのように内に示されることは日常的にあるものです。特に御言葉からくるものは霊的な法則として真実を語っていますので、パウロが受けた主の言葉でも、今わたしに与えられた言葉としてあなたが受け入れるならばそのようになります。彼は弱さを悲しんではいません。「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と大胆に宣言し、「弱さ、侮辱、危機、迫害に甘んじよう」と喜んで堂々と立ち向かっているのです。何が根拠でしょうか。パウロが述べてきます。「なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と。主の御言葉です。



かつてパウロは恐ろしいほどに強く自らを完璧の如く高慢になり、自分の身分、能力、地位、すべてを誇り「律法の義については落ち度のない者であった」と絶対者の如く振る舞い、命がけで教会を迫害しキリスト者を捕らえ殺していたのです。しかしキリストの光に照らし出された時、初めて自分の罪を見せられ、もはやわたしだけではなく、全人類が心の奥に宿っている罪の法則に閉じ込められ罪の奴隷とされ、すべてが肉の働きになってしまっている現実を示されたのです。聖なる律法に従うことによって罪の法則に落ちたのです。サタンの与えた知識の実の罠でありました。この世の人類は未だに、それを食べ続け、他を支配したいのです。




























# by oume-akebono | 2018-06-24 17:03 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章18-20節)   大谷唯信牧師



「…善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。…」



誰でも心の中にこのような葛藤を経験したり、後悔をする悲しみを負ったりしていないでしょうか。



パウロは家柄、能力、身分、全ての点で恵まれ、自信にあふれていました。イスラエル人としてのエリート中のエリートとして、実力を誇っていました。「へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、…律法の義については落ち度のない者」と自らを絶対的な、ほとんど完璧な者として自負していたのです。律法では最初に神以外のものを神としてはならないとあり、十戒の一つでも破ったものは石で撃ち殺せとされていた時代です。彼は、徹底的に教会を迫害し、神殿から兵まで出して、キリスト者を捕らえたのです。自らを「熱心の点では教会の迫害者」とまで言うほどでした。



しかし、キリストの光を心に受け、自分の心の奥の奥に、自分の意志や信念ではどうにもならない悪が入り込み、自分を支配していることに気づかされたのです。しかもそれは、「…もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と言わしめるほどの告白となったのです。それは単に自分の責任逃れ等の個人的な軽いものではなく、全人類を支配している強大な力-「…善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」、即ち、心では神の律法を喜んでいるが、「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、…罪の法則の中に、わたしをとりこにして…」と、私たちを罪の奴隷にしている悪、サタンの強大な支配-を発見したのです。



現在でもほとんどの人がこれに気づかず、認めようとはしません。自分の力で戦い、敗北の連続であっても気づきません。パウロには、「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と、戦う相手がはっきり分かっていたのです。自我の知識(罪)は私たちを盲目にします。イエスの十字架の言葉は神の力であり、ただそれによってのみ自我を砕くことができるのです。


























# by oume-akebono | 2018-06-17 14:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 5章16節)   大谷唯信牧師



「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」



パウロは肉によってイエスを知った時どうしたのでしょう。誰よりも激しくイエスとその弟子達、信者達を迫害し苦しめたのです。ではどうして迫害をやめ、それどころか自らを「キリストの僕」と称し、正に命がけでキリストの福音を伝える者となったのでしょうか。この驚くべき変化は何故起きたのでしょう。それはイエスの外側の肉ではなく、内側の霊的実体に触れたからです。



イエスは「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ424)と言われました。霊とまこととをもってとは、どういう事でしょう。今という瞬間々々に真心をぶつけて自分を生きているか否かを神の前で問う事です。霊的に生きるとは、実在の中に生きる事です。



たとえばあの12年間も病で苦しんでいた貧しい女性です。必死になって群衆の中を押し分けてイエスに触れました。その求めた中に見る事が出来るでしょう。その時、弟子達を始め多くの人が肩を押し合いイエスに「押し迫っていた」のです。しかしイエスに本当に触れたのは、この女性一人以外いなかったのです。ところが「押し迫っていた」多くの人々は、自分たちはイエスに触れていると思っていたのです。また、「富める青年」は群衆からイエスの前に飛び出してひざまずき「永遠の命」について尋ねたのです。「何と謙虚な立派な青年だろう」と人々は思った事でしょう。



しかしイエスが応えるごとに「それは小さい時から守ってきました」とまるで「そんな事は昔から知っていますよ!」と言うのです。実体なるものを知識で学び知る様に実体から遠くなっている現実が見えなくなっているのです。現在、このような状態になっている諸教会が増えています。「教会の祈り」を本気で取り組みましょう。サタンは巧妙にすべてを肉の働きに押し流そうとしていますから、油断してはいけません!























# by oume-akebono | 2018-06-10 13:49 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 22章37-40節)    大谷唯信牧師



「心をつくし精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。これら二つのいましめに、律法の全体と預言者とがかかっている。」 



神の私達に対するテーマは常に愛に生きると言う事である。第一があって第二がある。そしてこの二つは一つとされていく。互に愛し合う事に反対を唱える者はいない。皆、愛を求めている。しかし第一が抜け落ちているのだ。愛を本物にしていく秘訣を聖書は語る、「神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネⅠ4:10)だから「わたし達も互に愛し合うべきである」と。



即ち、神の愛に立つべきなのだ。この愛が抜けているならばわたしが全財産を人に施ししても、また自分のからだを焼かれるために渡しても一切は無益である」(I コリント13:3)とまで聖書は言い切る。この世はすべて神の愛によって創造された。私達もそうである。しかし、この世は神を認めず神の愛を失い、自分中心のエゴの愛で現在に至っている。そのためにこの世には神の愛なる愛はない。あるのは人間中心のエゴの愛であり本当に共に一つになる力は全くないのである。近頃の世界情勢を見よ。昔と同じく互いの武力の強さによって牽制し合っているだけの危ういものではないか。パウロは「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているならあなたがたは互いに滅ぼされる。であろう」(ガラテヤ5:15)と語っている。



この世はそれしか出来ないのだ。だからパウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない」と命じているのである。この御霊によって神はキリストのからだなる教会をつくり今の私達をも召してキリストの証人として立てて下さったのである。「神は万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」。私達は臆することなく主の証人としての恵みにあずかれるのである。


























# by oume-akebono | 2018-06-03 16:38 | 週報メッセージ

ヨハネによる福音書 4章24節    大谷唯信牧師



「神は霊であるから、あなたがたも霊とまこととをもって礼拝すべきである。」



「人を構成する四つの領域」から見れば聖書は霊の領域です。しかし、人の働きはすべて①②③の肉の領域でありこの世のすべては肉で動いています。肉とは神から離れ自己中心(罪)の中で生きていると言う事です。



しかし、私達はイエスの十字架の死と復活が私達の罪を贖い取って下さった事を信じ、その信仰でイエスを救い主として心に迎え入れました。すると死んでいた霊にキリストの命が入り成長に応じて神からの霊の賜物「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」の九つの実が与えられています。これは人の努力によってではなく信仰による恵みとして上からの賜りものとして与えられているのです。



ではこの霊の賜物をさらに深めるにはどうしたらよいのでしょうか。イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ44)と言われました。私達はまだ肉の多くがありますが霊の命が与えられています。これが土台です。私達はこの世の教育を身につけていますのですぐ自分の努力で頑張ったりします。悪くはないのですが知らないうちに肉の働きになってしまう時が多いのです。思うようにいかないと失望、不満、つぶやき、順調が続くと高慢になり他者への批難、裁き、敵意、争い等々、これが「肉の働き」(ガラテヤ519~)になってしまうからです。



私達は弱い者です。私は昔、強くならなければと頑張りました。15年もです。カラ回りでした。逆をやっていたのです。霊の領域は往々にして肉とは逆なのです。得ようとすると失い、捨てる者が得る世界です。「自分なり」のやり方はカラ回りです。今年はそれを学び生活を整えていきましょう。週報に記してある「教会の祈り」を大切にして下さい。



聖書は自分の信仰告白として信じ、味わい祈るのです。知識ではなく霊が成長する事を信じつつ共に歩もうではありませんか。




≪≪ 私たちの存在を支える人の4つの領域  ≫≫


① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
























# by oume-akebono | 2018-05-28 02:22 | 週報メッセージ

(使徒行伝 2章 1~4節)        大谷唯信牧師



「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」



この世は神の霊的命から離れ、自己中心の肉的命の世界に落ちてしまった。それは自分が意識するしないにかかわらず、神の支配を退け、罪の支配に身を委ねてしまった事から始まったのです。本来の霊なる命が絶たれ、この世は心の満たしを求めつつも、子どもが甘い物を欲しがるように、肉の物だけで喜びや自己実現を得るようになりました。



聖書に「女がその木を見ると、それは食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ」とあります。(創世記36)。神に反逆し、サタンの誘惑に従った瞬間でした。これが人間の罪(エゴ)の原点であり、この世のすべての罪の原点です。神の命である霊性を失い、肉のみで生きるようになってしまった結果です。



神は啓示により、聖書をこの世に与えて下さいました。聖書は救い主イエス・キリストを示し、イエス・キリストは神を示して下さったのです。そしてそれを現実の事として受け取れるように聖霊を注ぎ、信ずる者の目を開いて下さいました。神は初め天地創造の中に、ご自身を現わし、次に聖書(律法)の中に、そしてイエスの中に、最後に聖霊の中にご自身を御臨在として現わし、現在は教会の中に時空を超え、常に今の出来事として私たちの内に働き続けておられるのです。



私達が受けたバプテスマは、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」即ち「わたしはキリストと共に十字架で死んだ」そして「生きているのはもはやわたしではない、キリストがわたしのうちに生きている」(ガラテヤ人への手紙219-20)との信仰告白です。更に深めるためには、常にそれを意識し、意識し続けることです。頭の理解での納得に留まっていては力になりません。「ローマ人への手紙98-13」の御言葉は助けになるでしょう。聖霊は十字架で自我を砕き、内なる人を生かして下さいます。




























# by oume-akebono | 2018-05-20 15:23 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章 6~7節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは主イエス・キリストを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」



私達の教会のエネルギーの源泉はキリストの死と復活・再臨にあります。これはこの世の肉的次元ではなくすべてを超えておられる御霊の世界(次元)から来るエネルギーです。御霊によって歩いている教会はこの世の状況がどういうものであっても、豊かに成長し続ける事が出来ます。私達の教会は今や霊的信仰で歩んでいますので御言葉の約束通り大きく成長するでしょう。これは聖書的理論ではなく現実の私、現実のあなたがすでに霊的生命の営みの中に招き入れられ主と共に歩んでいるからです。勿論、この世には悩み、問題は沢山あるでしょう。しかし大丈夫です。



私達は肉的世界に生きていても霊的世界に信仰によって立っているからです。信仰とは自分の信仰を強く持って立つと言うのではありません。ここで頑張ると肉の信仰になりやすいのです。自分は強くても弱くてもよいのですがその時々の自分を正直に認めつつ、御聖霊の中にいる事、又、主と共にいる事を思い、それを常に意識し続けるのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)とあります。それは信仰がなくてはこの世にあって霊的世界に入る事は出来ないからです。



その信仰とは何でしょう。なかなか言葉で説明するのは難しいです。たとえわかりやすく説明し納得理解をしてもその理解が明確になるほど肉の信仰となり人間の知識や手で造った造花の如く美しく見えても命はありません。



それ故、神は独り子イエスを賜わり十字架の死と復活を信仰の根拠として与えて下さいました。これを自分のものにするには「バプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって彼と共によみがえらされたのである」(コロサイ2:12)これが霊的信仰を生む力となるのです。




























# by oume-akebono | 2018-05-14 01:18 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 13章 8節)      大谷唯信牧師



「ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、六十倍、三十倍にもなった」



「良い地」とは、太陽の日差しをいっぱいに浴びて御霊と御言葉と水とで豊かに耕されている霊的(神の命)土壌のことです。私達と教会は、互いの相乗効果によって真の自分として成長するでしょう。一人が成長すれば教会全体も成長し、教会が成長すれば一人ひとりもまた成長するのです。



百人の交響楽演奏を見てください。それぞれの異なる楽器、音もかたちも、楽譜もちがいます。しかし、一人の指揮者によって同じ曲の演奏をしているのです。互いのちがいが美しいハーモニーを生んでいます。それぞれが自分の持ち場で自分の持てる最高の音で、自分の好き勝手ではなく指揮者を見、まわりの音を聞きながら自分の音を出していく。この時の美しいハーモニーは一人の音では絶対に出来ません。ここでの個人主義はいけません。個人を大切にするからこそ、互いのハーモニーが生まれてきます。ここに人生の妙味があるのです。



教会も家庭も、また、企業でも、すなわち人の集うところは同じことが言えます。何故なら、人間として生きるとは命の営みですから、これが体得できればどこへ行っても本当に自由に動き、互いに実を結ぶことができるでしょう。それは、出会ったすべての人達とかかわり、交わりを共に深めていく中で自分の個性が生かされ、さらに発見があり深めつつ全体も成長するからです。



まず、教会で実験的に取り組むのは最適でしょう。なぜなら、すでに同じ目的で歩んでいるからです。「ホザナフェス」への参加も同じです。最初教会に来られた方は、そのこと自体、単なる偶然や自分の思いだけではなく、それ以上の大いなる力に導かれている出来事として認めてください。自分がこの世に生まれてきたのと同じです。たまたまではありません。人知をはるかに超えた方の計らいで目的をもって与えられた命です。これらを受け入れ始めるだけで、大きく自分の人生の景色が美しく変化してくるでしょう。自分の殻から出てみてください。


































# by oume-akebono | 2018-05-06 18:10 | 週報メッセージ

ホザナフェス、開催!

お知らせが遅くなってしまいましたが、わたし達あけぼの教会では、
今日から6日(日)まで177.png「あけぼのホザナフェス」177.pngを開催しています!


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「息のあるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」
                            詩篇150:6
「あの空も、海も、すべて創られたものは あなたを讃美する!」

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初日の今日は、70名近くの方が来て下さって、楽しみながら共に主を賛美しました。
ワークショップもキッズタイムも、子どもから大人までみんなで盛り上がりました169.png





















# by oume-akebono | 2018-05-04 23:54 | 行事

コリント人への第一の手紙 (15章55~57節)    大谷唯信牧師



「死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」



小松博吉兄(渡辺ゆかり姉の父)の葬儀が渡辺淳一、ゆかり夫妻の自宅で行われました。初めは家族を中心にささやかにと聞いておりましたが急拠一転、教会からパイプ椅子40脚が運び込まれ、礼拝堂のように自宅の椅子も合わせて当日は満席。部屋いっぱいに響く讃美、御言葉の中で納棺、告別、出棺と厳粛に進められ、当然別れの悲しみはあるのですが、小松兄のガンとの戦い、キリストとの出会い、信仰によるバプテスマとその後の平安な日々となるまでのいろいろ-不安、心配、疑い、祈り、信仰、許しあうこと、愛し合うこと、等々、小松兄がすべてを神に委ねきった平安な静かな姿にキリストを見ているからでしょう、悲しみを持ちながらもそれを越え、共に神に生き生かされている時でもありました。部屋全体が神の御臨在に満ち、まるで結婚式のような明るさと自由を感じ、ここにおられる全員が心を開いているのが分かります。



小松兄がゆかり姉に連れられて私の所へ来られたのは、昨年の今頃だったでしょうか。信仰を求めて来たのではなく病気で困っていたからです。「あと数ヶ月の命」と言うことも本人は知らず、手の痛い事の方を気にしていました。見ると右の掌がグローブのように大きく赤茶色に腫れ上がり、痛くて痺れるとのこと。すぐに癒やしの祈りをし、翌週に会うことにしました。翌週になってお会いしますと手は完全に普通になっていました。その後検査入院をした結果、ガンも消えました、食欲もありますと元気に言っていました。実に純粋な人と言う事です。以来安心したのか教会に姿を見せません。年が明けてから来られたときは再発とのこと。やっと真剣に求めだしバプテスマを受けたのです。彼が安定して霊的成長が始まりました。



バプテスマはイエスの十字架の死と復活を現します。普通の人は誰も復活など信じません。しかし敢えて神は、これを信ずる者に救いの命を与えるのです。不思議ですね!

























# by oume-akebono | 2018-04-29 23:50 | 週報メッセージ