(マルコによる福音書 5章27-28節)         大谷唯信牧師



「女はイェスの事を聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと思ったからである」



 もう駄目だと思い、

とても出来ないと思ったら、

実際に出来ません。

勝ちたいけど、とても勝てないと思ったら、

間違いなく勝てません。

負けると思ったら、負けます。

何故ならば、この世では、成功は、人の意思から始まります。

何もかも心の在り方一つです。

人生の戦いは、いつでも、強くて、抜け目のない者が勝つとは限りません。

遅かれ早かれ、勝つのは、

勝てると思った人なのです。



 これは信仰の法則を示したものである。これをあなたの信念としなさい。あなたは信じた事しか出来ない。出来ると信じたもの以上は、どんなにしても出来るものではない。堅く信ずれば、あなたの信仰は、あなたの想いを実現させてくれる。信仰はあなたの秘められた力を刺激する。信念を信ぜよ、信仰に頼る事を恐れてはならない。自分勝手に決めた限界を自分に押付けてはならない。生命の続く限り信じ続けなさい。そうすればあなたの能力は伸び続けであろう。「何でも祈り求めた事は、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)

(この詩はガラスの教会を建てた有名なロバート・シュラー牧師の恩師ノーマン・ピール牧師のものである)



 力の源はイェス・キリストへの信仰である。世にある可能性思考以上のものだ。キリストの十字架の死による贖いと復活によって私達人類に神の救いが与えられ、その恵みはすでに完成されている。ただ信仰によって得られるのである。



 冒頭の病の女は絶望以外何もない人物を描いている。彼女はイェスの事を耳にし、藁をも掴む気持で「せめてみ衣にでもさわれば治る」と信じて主にふれ、いやされたのである。主は言われた、「あなたの信仰があなたを救った」と。
























# by oume-akebono | 2018-09-02 15:06 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 4:24)   大谷唯信牧師



「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」



今年度は四月より「信仰による霊的成長の幕開け」と題し出発いたしました。今、八月も終わろうとしています。振り返って恵みを感謝いたしましょう。今日は「夏の霊交会」の日です。



イエス様は「我が名によって二人または三人おるところにはわたしもその中におる」(マタイ1820)と約束されました。教会の原点です。イエスの名によっての私達の交わりの中に主が御臨在下さるのです。何と素晴らしい事でしょう。今、主の御臨在の中に私達全員が共にいる事を意識し信じて下さい。私達がこの信仰をもって主を拝する時、私達の教会にキリストの命が満ちて来るのです。



「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」(ヨハネ154)何と心強いお言葉でしょう。教会は私達がキリストの体とされ、そのかしらはキリスト御自身です。教会での礼拝は私達の人生を支える力の源です。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ155)大きな恵みの約束であり、同時に厳しいお言葉です。ですから第一の物は第一に、即ち「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ633)



神の命を受け取るのはイエス様を信じる「信仰」であって、知識や感情の高ぶりでもありません。「神の霊であるから礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝せよ」との主のお言葉です。



聖書の人間理解を図で整理してイメージして下さい。普通人は①②③の領域で生きています。聖書は特に④の霊の領域が私達の神の命に満たされ、新しく生かされる事を示しています。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです。御言葉は神の約束です。信じて従う時、霊は深められます。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  























# by oume-akebono | 2018-08-26 15:25 | 週報メッセージ

(Ⅰコリント 1:28-31)      大谷唯信牧師



「神は、この世で身分の低い者や軽んじられている者、即ち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それはどんな人間でも神のみまえに誇ることがないためである。誇る者は主を誇れ。」



教会が本当に成長するには、この御言葉の如く「神は無きに等しい者を、あえて選んで下さった」、それは私自身の事だ!とわかった人が何人いるかにかかっている。御聖霊は心の砕けに応じて注がれるからである。「血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず..(ヨハネ1:13)である。



サタンは常に神や人に自分の栄光を誇るように仕向けるから気をつけよう。意識して奉仕に務める事は大切だが信仰の出来事として取り組まないといつの間にか自分の奉仕、自分の働きへの満足、自己実現となり神ではなく自分を喜ばすものにすり替ってしまう。パウロの言う「御霊で始めたのに肉で仕上げると言うのか」(ガラテヤ3:3)となる。人はどんなに良い行いをしてもその奥にある動機の中に肉が入り込んでくる余地がある。



サタンは肉と共にあり争いに導く。皆、主のために良き事を行うとの思いで取り組んでいるだけに一寸した刺激で肉が噴出するのだ。イライラしたり、怒ったり。パウロはこれを「キリストにある幼な子」即ち、肉の人であって普通の人のように歩いているためではないか」(Ⅰコリント3:1-3)と言う。決して駄目なのではない。これから成長する期待の星なのである。



教会はキリストのからだであって私達はキリストに選ばれ神の子とされた。皆、同じキリストの命を授かっている。だが肉の人は肉の働き(ガラテヤ5:16~)に振りまわされる。だからこそ互いに祈り、交わり、互いに成長の恵みを受け霊的成長し、それに応じて御霊の九つの実が豊かに与えられるのである。



霊的成長の秘訣はとにかく御言葉の光に照らされて肉の心、自我が砕かれる事にある。自分の罪深さ高慢さに気づき、砕かれたならば、神には勿論、親や家族、友人に対しても申し訳なさと感謝の思いが感動となって命の泉のように湧き出し生活が全く新しくされるのである。


























# by oume-akebono | 2018-08-19 17:21 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 3章1節)      大谷唯信牧師



「…あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。…上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」



神は私たちが日々新しく造られる事を、願っておられる。神はそれがお出来になる御方である。しかし、神は一方的にそれをなす事はされない。私たちの協力を必要とされている。それは私たちの思う「思い」なのである。すべての行動は、行動を起こす前のこの「思い」から出て来るからである。私たちは常に変化する現実の中で、いろいろな思いが絶えず出て来る。ここで大切な事は、良きにつけ悪しきにつけ、その中のどの思いを選び取るかによって、自分の行動が全く違ってくるという事だ。



そこで御言葉は語るのである。「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」と。初めは「そう言われても、地上のものに心を引かれてしまう」との思いも出てくるだろう。だからこそ、それ以上に上にあるものを求め、上にあるもの、その時心の内に示されているものを思い続けるのだ。必要に応じて御言葉を味わい、集中して思い続ける。忙しく動き回るのでなく、心を静め御言葉に深く沈み込み、御言葉が自分の思いと一つになるまで思い続けるのである。



「信じなさい」「託しなさい」「愛しなさい」等の御言葉に接し、自分の課題として示されたならば、読み流してしまうのではなく、御言葉を通し自分の内面を深く吟味するのだ。足りないところを突き示されたならそれを直視し、自分ではどうにもならないと観念して、あの放蕩息子のように、「私はここで死のうとしている。父よ許してください。」と上を仰いで悔い改め、十字架の主にそのまま全託するのである。



主の前に砕かれることである。主に委ねて、主に従う決意を新たにした時、ご聖霊が助け満たし平安に変えて下さるのである。反省して自分で何とかするのではない。主の前で砕かれるのだ。自己破産して主に任せるのである。





























# by oume-akebono | 2018-08-13 01:17 | 週報メッセージ

(申命記 30章14節)        大谷唯信牧師



「この言葉はあなたに、はなはだ近くにあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。」



「この言葉」とは神の言葉であり、十字架の言(Ⅰコリント1:16)である。しかも、私達に対する神の約束の言葉である。私達は常に礼拝において、また聖書を読むごとに御言葉を聞いている。しかし、読み聞くだけでは何も変わらない。まさにこれは肉的な領域ではなく、霊的領域の出来事なのだ。理解し納得で止まっている人は多い。それは絵に描いた餅となり、花で言えば造花に過ぎない。どんなものでも知識や文字となったとき、そうなってしまう。



霊の領域で受け取るには、その御言葉を信ずる信仰で受けるなら、生きた命が吹き込まれるのである。多くの連盟の諸教会が成長しない原因は、知識、理解、納得で止まっているからだ。実に美事な学識をもって語り理解し論じても、自分なりの肉の領域の出来事になっている。それをニコデモ信者と言う。



イエスは「わたしはいのちのパン、わたしを食べよ」とまで言われた。どんなに素晴らしい料理でも、レシピだけ読んで分かっても、実際に食べなければ餓死するのだ。これは理屈ではなく真実であろう。しかし信仰の出来事となると、この区別がつきにくい。肉なる自我と霊なる神我(霊の人)の区別がつかないのである。



「もし、御言葉がはなはだ近く()にあって心()にあるなら、あなたはこれを行うことができる」。「心で信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)にも通じる言葉だ。「私にはできない、無理!」と思い、口にした瞬間、あなたは負けである。人は自分で語る言葉や思いに支配されるからだ。失敗を語れば失敗、不安を口にすれば不安に支配される。だから御言葉を信じて祈り、祈っては信じる。すると弱い自分が見えてくる。それが霊への入口となる。御霊に頼れ。「御霊もまた同じように弱いわたし達を助けて下さる」。とりなして下さるのだ。御霊はあなたを助けたいのである。






≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  




















# by oume-akebono | 2018-08-05 13:11 | 週報メッセージ

(詩篇 42篇 5節)        大谷唯信牧師



「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」



人は誰で苦境に立たせられる時がある。思わぬ出来事に悲しみ、絶望にうちひしがれる時があるものだ。弟子達はイエスと共にガリラヤ湖にて船に乗り向こう岸に渡ろうとしていた。ところが急に嵐に見舞われ強風と高波にもまれ、船が沈みそうになった(マタイ4:35-41)。私達の人生に現実を語っているのである。その時イエスとは眠っておられた。弟子達は恐怖のあまりイエスのもとへ走り寄り、イエスを揺り起こし「主よ、お助け下さい。わたし達は死にそうです」と叫んだ。



主と共にいながら主への信仰は全くなかったのである。主のもとへ走り寄り主に頼ったことは良かった。しかし主の体に触れ主に寄り頼みながらも主への信仰、即ち主が助けて下さるとの信仰はなかったのである。だから泣き叫ぶ。イエスは波を静め言われた。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」見るまでは信じていなかったからである。



わたし達もこう言う事はないだろうか。求め、寄り頼んでいるのだが信仰がない。願ってはいるのだが信仰を持っていない。主と共にいながらも独りぼっちでいる。主から見放されている、主から遠くにいる、無視されていると感じてしまう。



何故そうなるのか。信仰を感情の上に乗せているからである。信仰は意志であり決断である。愛も同じである。気分やその時々の感情ではない。それは②の領域の肉に立っているのだ。信仰、希望、愛は④の領域、霊的決断である。



アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。サラの胎が不妊であるのを認めながらも信仰は弱らなかった」のである。ダビデは失意の中で「わが魂よ、なにゆえうなだれるのか」と自分に呼びかけ「神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神をほめたたえる」と祈ったことを覚えよう。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
























# by oume-akebono | 2018-07-29 17:58 | 週報メッセージ

(詩篇 42篇 5節)        大谷唯信牧師



「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」



人は誰で苦境に立たせられる時がある。思わぬ出来事に悲しみ、絶望にうちひしがれる時があるものだ。弟子達はイエスと共にガリラヤ湖にて船に乗り向こう岸に渡ろうとしていた。ところが急に嵐に見舞われ強風と高波にもまれ、船が沈みそうになった(マタイ4:35-41)。私達の人生に現実を語っているのである。その時イエスとは眠っておられた。弟子達は恐怖のあまりイエスのもとへ走り寄り、イエスを揺り起こし「主よ、お助け下さい。わたし達は死にそうです」と叫んだ。



主と共にいながら主への信仰は全くなかったのである。主のもとへ走り寄り主に頼ったことは良かった。しかし主の体に触れ主に寄り頼みながらも主への信仰、即ち主が助けて下さるとの信仰はなかったのである。だから泣き叫ぶ。イエスは波を静め言われた。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」見るまでは信じていなかったからである。



わたし達もこう言う事はないだろうか。求め、寄り頼んでいるのだが信仰がない。願ってはいるのだが信仰を持っていない。主と共にいながらも独りぼっちでいる。主から見放されている、主から遠くにいる、無視されていると感じてしまう。



何故そうなるのか。信仰を感情の上に乗せているからである。信仰は意志であり決断である。愛も同じである。気分やその時々の感情ではない。それは②の領域の肉に立っているのだ。信仰、希望、愛は④の領域、霊的決断である。



アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。サラの胎が不妊であるのを認めながらも信仰は弱らなかった」のである。ダビデは失意の中で「わが魂よ、なにゆえうなだれるのか」と自分に呼びかけ「神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神をほめたたえる」と祈ったことを覚えよう。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
























# by oume-akebono | 2018-07-29 17:58 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 24章 5~6節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」



何と象徴的な奥深い言葉であろうか。迫害下でも真剣にキリストを求めているのに、いつの間にか「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」と言われてしまう状態になっているのである。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」(ローマ人への手紙85)これは普遍的な命の原理である。即ち、霊を求め従っているつもりでも、そこに「敵意、争い、そねみ、怒り・・・」(ガラテヤ人への手紙520)等の思いが出て来るなら、実際は肉に立っているのだ。私達はこの現実を正直に直視しなければならない。



「肉に従う」のは無理からぬ事とも思う。何故ならこの世はすべて肉に支配されているからだ。私達はこの中で生まれ、この中で教育され、今に至っている。私達は肉そのものになっているのだ。肉とは自分中心であり、自分の理解、自分の考え、自分の納得、自分の好き嫌いの世界だ。正しさに於いても、温かさ美しさに於いても自分の思う通りを求める。その根拠は自分の人生経験、自分の知識等であり、結局は自分なのだ。この世はその積み重ねで成り立っている。



これは決して悪い事ではない。当然の事だろう。しかしこれで霊なるキリストを求めてゆくと、「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」となってしまう。彼らは自分なりに立って求めているのだ。「その方はここにはおられない」。何と言う事か。おられるはずのキリストがそこにおられない。キリスト不在なのである。



「よみがえられたのだ」。と聞いた時、使徒たちですら「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」とある。勿論、使徒たちはイエスを愛し信じていたであろう。しかし、「それが愚かな話のように思われて」なのだ。これこそ自分なりの愛であり、自分なりの「信じる」であったのである。



肉に従う者は肉のことを思い」となる。「霊に従う者は霊のことを思う」。切り替えるのだ。日々、自分なりを捨て砕かれて主を仰ぎ主につながる思いを持ち続けよう。これが「霊と真をもって礼拝する」ことになる。これがないと見かけは立派でも、キリスト不在の教会になってしまう。





























# by oume-akebono | 2018-07-22 17:54 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章15節)          大谷唯信牧師



愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである



これは私達教 会に与えられている神からの成長の約束である。何と感謝なことか。勿論、成長させて下さるのは神御自身である。さらに続いて私達教会への注意が語られている。「私達はもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教えの風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」(エペ4:14)と言うのである。



この世は肉が支配している。教会の内も外も常に悪の霊に攻められている事を覚えよう。決して油断してはならないのだ。悪魔は有能で熱心な人を利用し、その熱心とその働きから不平、不満を起こさせ問題に発展させるから油断大敵なのだ。私達の教会はこれから主にあって素晴らしく成長する。となると、今いる私達が基礎となるわけではないか。どこの教会を見ても最初の基礎となった人達の信仰の有り方はその後の教会に良くも悪くも大きな影響を与えている。それだけに私達は心してキリストを土台として、キリストを中心に生き生きした信仰生活をおくる必要がある。



この世で健全な信仰を保つには教会なしでは在り得ない教会にしっかりつながり外敵から守られ、教会の交わりの中で教会を建て上げていく働き手になっていく程に神の祝福が流れ込み豊かな成長の恵みにあずかる事になる。これがキリストの成長させる方法なのだ。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハ15:5)「御霊の実」なのだ。礼拝、みことば、祈りを生活から奪われないようにしよう。



そうするにはどうしたらよいのだろうか。イェスは最も基本的な事を教えておられる。あらゆるクリスチャン生活の原動力となるものである。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ」(マタ22:37)である。誰もがわかっているようでやっていないのである。もし、やれば、そこにいるだけで神の臨在を感じさせる人になるであろう。
























# by oume-akebono | 2018-07-15 17:49 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章15節)        大谷唯信牧師



「わたしたちは愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」



放蕩息子の兄は完全なまでに父に忠実に仕え模範的な青年でした。しかし、弟が戻り歓迎されているのを見て腹を立て、家に入ることさえできなかったのです。人が心から謙遜になるのは難しいのです。努力している人ほど難しい。頑張るその自意識の中におごりが入り込むからです。しかも本人はそのおごりには全く気がつかず、自分の謙遜にはしっかりと意識します。努力で頑張っているからでしょう。すると人の高慢さが気になり、許せなくなったりするのです。「私はこんなに謙遜になっているのに、あなたは・・・」のパターンです。



本来、謙遜は自分の謙遜を知りません。むしろ自分の未熟さ、高慢さに痛みを覚え、他を批判するどころか自分の他への申し訳なさでいっぱいです。努力は努力でよいのですが知識と同じく高慢になります。自分の罪深さに心砕けた人のみに開かれる世界なのです。本心に立ち返った放蕩息子は自我を砕かれました。



「父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました、生意気でした、甘えていました」と心底気づいたのです。自己中心の心が砕かれると見栄、プライド、照れ、恥ずかしさ、弱いとか強いとかのこだわりも吹き飛びます。ただ、申し訳なさと感謝とそれでも生かされている喜びと感動が自然に湧き起こるのです。自我が砕かれた本心の姿がこれです。



誰でもこの砕かれた経験、理屈抜きの心の経験をしなければ本当の自分の人生は深まりません。頭ではなく、霊の心で信じイエスを迎え、キリストと共に十字架に死に主と共に生きる信仰に立つことです。



今は御聖霊の時代です。聖霊が慰め、力を与え支えます。聖霊への信仰をしっかり持ちましょう。御言葉には聖霊が満ちています。「互いにしのび合い、もし責むべきことがあれば許し合いなさい。」これが教会に満ちる時、教会は豊かな成長の恵みを賜り、さらに大いなる道が開かれることでしょう。
























# by oume-akebono | 2018-07-08 17:45 | 週報メッセージ

7月1日 霊に燃え

(ローマ人への手紙 12章 11~12節)       大谷唯信牧師



「霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」



神はすべての人にからだを与えたように霊を与えて下さっています。「神は土のちりで人を造り、命の息(霊)を吹き入れられた。そこで人は生きた(魂=良心を持つ)者となった」(創3:7)のです。神を信じない者にも同じく霊はあるのです。しかし創造主の神との断絶によって霊のパイプは切れ、霊は死んだような状態になってしまったのです。本来は神との命の交流を持って神と共に生きるはずが神を失い自分だけで生きる自己中心(肉)となってしまいました。この断絶の状態を罪と言い、この罪の支配によって①②③の領域すべてがエゴとなり、いわゆる肉の働きとなって生きる、それが普通になってしまったのです。かろうじて魂なる良心は生きていますから社会常識から得た善悪の判断はある程度は出来ます。社会秩序はこれで保たれる筈ですが絶対的なものではありません。文化や状況によって心は変化するからです。しかし、私達、主を信じる心の奥の奥にある霊は神の命とつながり神の絶対的な愛に触れる事ができる唯一の領域です。



もう一度整理してみましょう。頭は生まれた後に学び、理解する知的領域。心は喜び、悲しみ等の情動的領域。霊は信ずる領域。魂は霊と心の間にあり、両者の働きを持ち、両者を結びつける大切な役割があります。しかし、ほとんどが霊ではなく肉の心の中に取り込まれているのが現状です。ですから心(魂)では御言葉を聞き、心は響き信じようと動くのですが、肉にどっぷり漬け込まれているとその時だけ知的魂となって拒否してしまうのです。魂は霊の領域の事を一番先に信じて心や頭に流してやらなければならないのですができません。砕かれていないからです。霊以外の領域は肉です。霊の領域を深めるには御子を信ずる他にはありません。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」又「肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安である」(ロマ8:5-6)です。もう一度冒頭の御言葉を味わい、祈り、信じ霊の中に受けとめましょう。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  

























# by oume-akebono | 2018-07-01 17:21 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10-11節)     大谷唯信牧師



「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい。」



パウロはクリスチャンに「強くなれ!」と言っています。決して「弱くてよい」とは言ってはいません。しかし「誰でも困難にぶつかった時、わたしも弱らないでおれようか」と正直に自分を見ています。自分の弱さを誰よりも知っているのです。そこで祈りました。三度もです。その時、主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との啓示を受けたのです。心の内に声を聞いたのです。



「パウロはいいな!わたしはそんなこと言われたことはない」等の思いもあるかもしれません。しかし特別なことではなく、何かを本当に困って切実に求めるものには、何らかの気付き、思い、人の声、言葉等々からひらめきのように内に示されることは日常的にあるものです。特に御言葉からくるものは霊的な法則として真実を語っていますので、パウロが受けた主の言葉でも、今わたしに与えられた言葉としてあなたが受け入れるならばそのようになります。彼は弱さを悲しんではいません。「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と大胆に宣言し、「弱さ、侮辱、危機、迫害に甘んじよう」と喜んで堂々と立ち向かっているのです。何が根拠でしょうか。パウロが述べてきます。「なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と。主の御言葉です。



かつてパウロは恐ろしいほどに強く自らを完璧の如く高慢になり、自分の身分、能力、地位、すべてを誇り「律法の義については落ち度のない者であった」と絶対者の如く振る舞い、命がけで教会を迫害しキリスト者を捕らえ殺していたのです。しかしキリストの光に照らし出された時、初めて自分の罪を見せられ、もはやわたしだけではなく、全人類が心の奥に宿っている罪の法則に閉じ込められ罪の奴隷とされ、すべてが肉の働きになってしまっている現実を示されたのです。聖なる律法に従うことによって罪の法則に落ちたのです。サタンの与えた知識の実の罠でありました。この世の人類は未だに、それを食べ続け、他を支配したいのです。




























# by oume-akebono | 2018-06-24 17:03 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章18-20節)   大谷唯信牧師



「…善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。…」



誰でも心の中にこのような葛藤を経験したり、後悔をする悲しみを負ったりしていないでしょうか。



パウロは家柄、能力、身分、全ての点で恵まれ、自信にあふれていました。イスラエル人としてのエリート中のエリートとして、実力を誇っていました。「へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、…律法の義については落ち度のない者」と自らを絶対的な、ほとんど完璧な者として自負していたのです。律法では最初に神以外のものを神としてはならないとあり、十戒の一つでも破ったものは石で撃ち殺せとされていた時代です。彼は、徹底的に教会を迫害し、神殿から兵まで出して、キリスト者を捕らえたのです。自らを「熱心の点では教会の迫害者」とまで言うほどでした。



しかし、キリストの光を心に受け、自分の心の奥の奥に、自分の意志や信念ではどうにもならない悪が入り込み、自分を支配していることに気づかされたのです。しかもそれは、「…もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と言わしめるほどの告白となったのです。それは単に自分の責任逃れ等の個人的な軽いものではなく、全人類を支配している強大な力-「…善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」、即ち、心では神の律法を喜んでいるが、「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、…罪の法則の中に、わたしをとりこにして…」と、私たちを罪の奴隷にしている悪、サタンの強大な支配-を発見したのです。



現在でもほとんどの人がこれに気づかず、認めようとはしません。自分の力で戦い、敗北の連続であっても気づきません。パウロには、「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と、戦う相手がはっきり分かっていたのです。自我の知識(罪)は私たちを盲目にします。イエスの十字架の言葉は神の力であり、ただそれによってのみ自我を砕くことができるのです。


























# by oume-akebono | 2018-06-17 14:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 5章16節)   大谷唯信牧師



「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」



パウロは肉によってイエスを知った時どうしたのでしょう。誰よりも激しくイエスとその弟子達、信者達を迫害し苦しめたのです。ではどうして迫害をやめ、それどころか自らを「キリストの僕」と称し、正に命がけでキリストの福音を伝える者となったのでしょうか。この驚くべき変化は何故起きたのでしょう。それはイエスの外側の肉ではなく、内側の霊的実体に触れたからです。



イエスは「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ424)と言われました。霊とまこととをもってとは、どういう事でしょう。今という瞬間々々に真心をぶつけて自分を生きているか否かを神の前で問う事です。霊的に生きるとは、実在の中に生きる事です。



たとえばあの12年間も病で苦しんでいた貧しい女性です。必死になって群衆の中を押し分けてイエスに触れました。その求めた中に見る事が出来るでしょう。その時、弟子達を始め多くの人が肩を押し合いイエスに「押し迫っていた」のです。しかしイエスに本当に触れたのは、この女性一人以外いなかったのです。ところが「押し迫っていた」多くの人々は、自分たちはイエスに触れていると思っていたのです。また、「富める青年」は群衆からイエスの前に飛び出してひざまずき「永遠の命」について尋ねたのです。「何と謙虚な立派な青年だろう」と人々は思った事でしょう。



しかしイエスが応えるごとに「それは小さい時から守ってきました」とまるで「そんな事は昔から知っていますよ!」と言うのです。実体なるものを知識で学び知る様に実体から遠くなっている現実が見えなくなっているのです。現在、このような状態になっている諸教会が増えています。「教会の祈り」を本気で取り組みましょう。サタンは巧妙にすべてを肉の働きに押し流そうとしていますから、油断してはいけません!























# by oume-akebono | 2018-06-10 13:49 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 22章37-40節)    大谷唯信牧師



「心をつくし精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。これら二つのいましめに、律法の全体と預言者とがかかっている。」 



神の私達に対するテーマは常に愛に生きると言う事である。第一があって第二がある。そしてこの二つは一つとされていく。互に愛し合う事に反対を唱える者はいない。皆、愛を求めている。しかし第一が抜け落ちているのだ。愛を本物にしていく秘訣を聖書は語る、「神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネⅠ4:10)だから「わたし達も互に愛し合うべきである」と。



即ち、神の愛に立つべきなのだ。この愛が抜けているならばわたしが全財産を人に施ししても、また自分のからだを焼かれるために渡しても一切は無益である」(I コリント13:3)とまで聖書は言い切る。この世はすべて神の愛によって創造された。私達もそうである。しかし、この世は神を認めず神の愛を失い、自分中心のエゴの愛で現在に至っている。そのためにこの世には神の愛なる愛はない。あるのは人間中心のエゴの愛であり本当に共に一つになる力は全くないのである。近頃の世界情勢を見よ。昔と同じく互いの武力の強さによって牽制し合っているだけの危ういものではないか。パウロは「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているならあなたがたは互いに滅ぼされる。であろう」(ガラテヤ5:15)と語っている。



この世はそれしか出来ないのだ。だからパウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない」と命じているのである。この御霊によって神はキリストのからだなる教会をつくり今の私達をも召してキリストの証人として立てて下さったのである。「神は万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」。私達は臆することなく主の証人としての恵みにあずかれるのである。


























# by oume-akebono | 2018-06-03 16:38 | 週報メッセージ