7月1日 霊に燃え

(ローマ人への手紙 12章 11~12節)       大谷唯信牧師



「霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」



神はすべての人にからだを与えたように霊を与えて下さっています。「神は土のちりで人を造り、命の息(霊)を吹き入れられた。そこで人は生きた(魂=良心を持つ)者となった」(創3:7)のです。神を信じない者にも同じく霊はあるのです。しかし創造主の神との断絶によって霊のパイプは切れ、霊は死んだような状態になってしまったのです。本来は神との命の交流を持って神と共に生きるはずが神を失い自分だけで生きる自己中心(肉)となってしまいました。この断絶の状態を罪と言い、この罪の支配によって①②③の領域すべてがエゴとなり、いわゆる肉の働きとなって生きる、それが普通になってしまったのです。かろうじて魂なる良心は生きていますから社会常識から得た善悪の判断はある程度は出来ます。社会秩序はこれで保たれる筈ですが絶対的なものではありません。文化や状況によって心は変化するからです。しかし、私達、主を信じる心の奥の奥にある霊は神の命とつながり神の絶対的な愛に触れる事ができる唯一の領域です。



もう一度整理してみましょう。頭は生まれた後に学び、理解する知的領域。心は喜び、悲しみ等の情動的領域。霊は信ずる領域。魂は霊と心の間にあり、両者の働きを持ち、両者を結びつける大切な役割があります。しかし、ほとんどが霊ではなく肉の心の中に取り込まれているのが現状です。ですから心(魂)では御言葉を聞き、心は響き信じようと動くのですが、肉にどっぷり漬け込まれているとその時だけ知的魂となって拒否してしまうのです。魂は霊の領域の事を一番先に信じて心や頭に流してやらなければならないのですができません。砕かれていないからです。霊以外の領域は肉です。霊の領域を深めるには御子を信ずる他にはありません。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」又「肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安である」(ロマ8:5-6)です。もう一度冒頭の御言葉を味わい、祈り、信じ霊の中に受けとめましょう。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  

























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# by oume-akebono | 2018-07-01 17:21 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10-11節)     大谷唯信牧師



「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい。」



パウロはクリスチャンに「強くなれ!」と言っています。決して「弱くてよい」とは言ってはいません。しかし「誰でも困難にぶつかった時、わたしも弱らないでおれようか」と正直に自分を見ています。自分の弱さを誰よりも知っているのです。そこで祈りました。三度もです。その時、主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との啓示を受けたのです。心の内に声を聞いたのです。



「パウロはいいな!わたしはそんなこと言われたことはない」等の思いもあるかもしれません。しかし特別なことではなく、何かを本当に困って切実に求めるものには、何らかの気付き、思い、人の声、言葉等々からひらめきのように内に示されることは日常的にあるものです。特に御言葉からくるものは霊的な法則として真実を語っていますので、パウロが受けた主の言葉でも、今わたしに与えられた言葉としてあなたが受け入れるならばそのようになります。彼は弱さを悲しんではいません。「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と大胆に宣言し、「弱さ、侮辱、危機、迫害に甘んじよう」と喜んで堂々と立ち向かっているのです。何が根拠でしょうか。パウロが述べてきます。「なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と。主の御言葉です。



かつてパウロは恐ろしいほどに強く自らを完璧の如く高慢になり、自分の身分、能力、地位、すべてを誇り「律法の義については落ち度のない者であった」と絶対者の如く振る舞い、命がけで教会を迫害しキリスト者を捕らえ殺していたのです。しかしキリストの光に照らし出された時、初めて自分の罪を見せられ、もはやわたしだけではなく、全人類が心の奥に宿っている罪の法則に閉じ込められ罪の奴隷とされ、すべてが肉の働きになってしまっている現実を示されたのです。聖なる律法に従うことによって罪の法則に落ちたのです。サタンの与えた知識の実の罠でありました。この世の人類は未だに、それを食べ続け、他を支配したいのです。




























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# by oume-akebono | 2018-06-24 17:03 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章18-20節)   大谷唯信牧師



「…善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。…」



誰でも心の中にこのような葛藤を経験したり、後悔をする悲しみを負ったりしていないでしょうか。



パウロは家柄、能力、身分、全ての点で恵まれ、自信にあふれていました。イスラエル人としてのエリート中のエリートとして、実力を誇っていました。「へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、…律法の義については落ち度のない者」と自らを絶対的な、ほとんど完璧な者として自負していたのです。律法では最初に神以外のものを神としてはならないとあり、十戒の一つでも破ったものは石で撃ち殺せとされていた時代です。彼は、徹底的に教会を迫害し、神殿から兵まで出して、キリスト者を捕らえたのです。自らを「熱心の点では教会の迫害者」とまで言うほどでした。



しかし、キリストの光を心に受け、自分の心の奥の奥に、自分の意志や信念ではどうにもならない悪が入り込み、自分を支配していることに気づかされたのです。しかもそれは、「…もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と言わしめるほどの告白となったのです。それは単に自分の責任逃れ等の個人的な軽いものではなく、全人類を支配している強大な力-「…善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」、即ち、心では神の律法を喜んでいるが、「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、…罪の法則の中に、わたしをとりこにして…」と、私たちを罪の奴隷にしている悪、サタンの強大な支配-を発見したのです。



現在でもほとんどの人がこれに気づかず、認めようとはしません。自分の力で戦い、敗北の連続であっても気づきません。パウロには、「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と、戦う相手がはっきり分かっていたのです。自我の知識(罪)は私たちを盲目にします。イエスの十字架の言葉は神の力であり、ただそれによってのみ自我を砕くことができるのです。


























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# by oume-akebono | 2018-06-17 14:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 5章16節)   大谷唯信牧師



「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」



パウロは肉によってイエスを知った時どうしたのでしょう。誰よりも激しくイエスとその弟子達、信者達を迫害し苦しめたのです。ではどうして迫害をやめ、それどころか自らを「キリストの僕」と称し、正に命がけでキリストの福音を伝える者となったのでしょうか。この驚くべき変化は何故起きたのでしょう。それはイエスの外側の肉ではなく、内側の霊的実体に触れたからです。



イエスは「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ424)と言われました。霊とまこととをもってとは、どういう事でしょう。今という瞬間々々に真心をぶつけて自分を生きているか否かを神の前で問う事です。霊的に生きるとは、実在の中に生きる事です。



たとえばあの12年間も病で苦しんでいた貧しい女性です。必死になって群衆の中を押し分けてイエスに触れました。その求めた中に見る事が出来るでしょう。その時、弟子達を始め多くの人が肩を押し合いイエスに「押し迫っていた」のです。しかしイエスに本当に触れたのは、この女性一人以外いなかったのです。ところが「押し迫っていた」多くの人々は、自分たちはイエスに触れていると思っていたのです。また、「富める青年」は群衆からイエスの前に飛び出してひざまずき「永遠の命」について尋ねたのです。「何と謙虚な立派な青年だろう」と人々は思った事でしょう。



しかしイエスが応えるごとに「それは小さい時から守ってきました」とまるで「そんな事は昔から知っていますよ!」と言うのです。実体なるものを知識で学び知る様に実体から遠くなっている現実が見えなくなっているのです。現在、このような状態になっている諸教会が増えています。「教会の祈り」を本気で取り組みましょう。サタンは巧妙にすべてを肉の働きに押し流そうとしていますから、油断してはいけません!























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# by oume-akebono | 2018-06-10 13:49 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 22章37-40節)    大谷唯信牧師



「心をつくし精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。これら二つのいましめに、律法の全体と預言者とがかかっている。」 



神の私達に対するテーマは常に愛に生きると言う事である。第一があって第二がある。そしてこの二つは一つとされていく。互に愛し合う事に反対を唱える者はいない。皆、愛を求めている。しかし第一が抜け落ちているのだ。愛を本物にしていく秘訣を聖書は語る、「神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネⅠ4:10)だから「わたし達も互に愛し合うべきである」と。



即ち、神の愛に立つべきなのだ。この愛が抜けているならばわたしが全財産を人に施ししても、また自分のからだを焼かれるために渡しても一切は無益である」(I コリント13:3)とまで聖書は言い切る。この世はすべて神の愛によって創造された。私達もそうである。しかし、この世は神を認めず神の愛を失い、自分中心のエゴの愛で現在に至っている。そのためにこの世には神の愛なる愛はない。あるのは人間中心のエゴの愛であり本当に共に一つになる力は全くないのである。近頃の世界情勢を見よ。昔と同じく互いの武力の強さによって牽制し合っているだけの危ういものではないか。パウロは「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているならあなたがたは互いに滅ぼされる。であろう」(ガラテヤ5:15)と語っている。



この世はそれしか出来ないのだ。だからパウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない」と命じているのである。この御霊によって神はキリストのからだなる教会をつくり今の私達をも召してキリストの証人として立てて下さったのである。「神は万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」。私達は臆することなく主の証人としての恵みにあずかれるのである。


























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# by oume-akebono | 2018-06-03 16:38 | 週報メッセージ

ヨハネによる福音書 4章24節    大谷唯信牧師



「神は霊であるから、あなたがたも霊とまこととをもって礼拝すべきである。」



「人を構成する四つの領域」から見れば聖書は霊の領域です。しかし、人の働きはすべて①②③の肉の領域でありこの世のすべては肉で動いています。肉とは神から離れ自己中心(罪)の中で生きていると言う事です。



しかし、私達はイエスの十字架の死と復活が私達の罪を贖い取って下さった事を信じ、その信仰でイエスを救い主として心に迎え入れました。すると死んでいた霊にキリストの命が入り成長に応じて神からの霊の賜物「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」の九つの実が与えられています。これは人の努力によってではなく信仰による恵みとして上からの賜りものとして与えられているのです。



ではこの霊の賜物をさらに深めるにはどうしたらよいのでしょうか。イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ44)と言われました。私達はまだ肉の多くがありますが霊の命が与えられています。これが土台です。私達はこの世の教育を身につけていますのですぐ自分の努力で頑張ったりします。悪くはないのですが知らないうちに肉の働きになってしまう時が多いのです。思うようにいかないと失望、不満、つぶやき、順調が続くと高慢になり他者への批難、裁き、敵意、争い等々、これが「肉の働き」(ガラテヤ519~)になってしまうからです。



私達は弱い者です。私は昔、強くならなければと頑張りました。15年もです。カラ回りでした。逆をやっていたのです。霊の領域は往々にして肉とは逆なのです。得ようとすると失い、捨てる者が得る世界です。「自分なり」のやり方はカラ回りです。今年はそれを学び生活を整えていきましょう。週報に記してある「教会の祈り」を大切にして下さい。



聖書は自分の信仰告白として信じ、味わい祈るのです。知識ではなく霊が成長する事を信じつつ共に歩もうではありませんか。




≪≪ 私たちの存在を支える人の4つの領域  ≫≫


① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
























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# by oume-akebono | 2018-05-28 02:22 | 週報メッセージ

(使徒行伝 2章 1~4節)        大谷唯信牧師



「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」



この世は神の霊的命から離れ、自己中心の肉的命の世界に落ちてしまった。それは自分が意識するしないにかかわらず、神の支配を退け、罪の支配に身を委ねてしまった事から始まったのです。本来の霊なる命が絶たれ、この世は心の満たしを求めつつも、子どもが甘い物を欲しがるように、肉の物だけで喜びや自己実現を得るようになりました。



聖書に「女がその木を見ると、それは食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ」とあります。(創世記36)。神に反逆し、サタンの誘惑に従った瞬間でした。これが人間の罪(エゴ)の原点であり、この世のすべての罪の原点です。神の命である霊性を失い、肉のみで生きるようになってしまった結果です。



神は啓示により、聖書をこの世に与えて下さいました。聖書は救い主イエス・キリストを示し、イエス・キリストは神を示して下さったのです。そしてそれを現実の事として受け取れるように聖霊を注ぎ、信ずる者の目を開いて下さいました。神は初め天地創造の中に、ご自身を現わし、次に聖書(律法)の中に、そしてイエスの中に、最後に聖霊の中にご自身を御臨在として現わし、現在は教会の中に時空を超え、常に今の出来事として私たちの内に働き続けておられるのです。



私達が受けたバプテスマは、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」即ち「わたしはキリストと共に十字架で死んだ」そして「生きているのはもはやわたしではない、キリストがわたしのうちに生きている」(ガラテヤ人への手紙219-20)との信仰告白です。更に深めるためには、常にそれを意識し、意識し続けることです。頭の理解での納得に留まっていては力になりません。「ローマ人への手紙98-13」の御言葉は助けになるでしょう。聖霊は十字架で自我を砕き、内なる人を生かして下さいます。




























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# by oume-akebono | 2018-05-20 15:23 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章 6~7節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは主イエス・キリストを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」



私達の教会のエネルギーの源泉はキリストの死と復活・再臨にあります。これはこの世の肉的次元ではなくすべてを超えておられる御霊の世界(次元)から来るエネルギーです。御霊によって歩いている教会はこの世の状況がどういうものであっても、豊かに成長し続ける事が出来ます。私達の教会は今や霊的信仰で歩んでいますので御言葉の約束通り大きく成長するでしょう。これは聖書的理論ではなく現実の私、現実のあなたがすでに霊的生命の営みの中に招き入れられ主と共に歩んでいるからです。勿論、この世には悩み、問題は沢山あるでしょう。しかし大丈夫です。



私達は肉的世界に生きていても霊的世界に信仰によって立っているからです。信仰とは自分の信仰を強く持って立つと言うのではありません。ここで頑張ると肉の信仰になりやすいのです。自分は強くても弱くてもよいのですがその時々の自分を正直に認めつつ、御聖霊の中にいる事、又、主と共にいる事を思い、それを常に意識し続けるのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)とあります。それは信仰がなくてはこの世にあって霊的世界に入る事は出来ないからです。



その信仰とは何でしょう。なかなか言葉で説明するのは難しいです。たとえわかりやすく説明し納得理解をしてもその理解が明確になるほど肉の信仰となり人間の知識や手で造った造花の如く美しく見えても命はありません。



それ故、神は独り子イエスを賜わり十字架の死と復活を信仰の根拠として与えて下さいました。これを自分のものにするには「バプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって彼と共によみがえらされたのである」(コロサイ2:12)これが霊的信仰を生む力となるのです。




























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# by oume-akebono | 2018-05-14 01:18 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 13章 8節)      大谷唯信牧師



「ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、六十倍、三十倍にもなった」



「良い地」とは、太陽の日差しをいっぱいに浴びて御霊と御言葉と水とで豊かに耕されている霊的(神の命)土壌のことです。私達と教会は、互いの相乗効果によって真の自分として成長するでしょう。一人が成長すれば教会全体も成長し、教会が成長すれば一人ひとりもまた成長するのです。



百人の交響楽演奏を見てください。それぞれの異なる楽器、音もかたちも、楽譜もちがいます。しかし、一人の指揮者によって同じ曲の演奏をしているのです。互いのちがいが美しいハーモニーを生んでいます。それぞれが自分の持ち場で自分の持てる最高の音で、自分の好き勝手ではなく指揮者を見、まわりの音を聞きながら自分の音を出していく。この時の美しいハーモニーは一人の音では絶対に出来ません。ここでの個人主義はいけません。個人を大切にするからこそ、互いのハーモニーが生まれてきます。ここに人生の妙味があるのです。



教会も家庭も、また、企業でも、すなわち人の集うところは同じことが言えます。何故なら、人間として生きるとは命の営みですから、これが体得できればどこへ行っても本当に自由に動き、互いに実を結ぶことができるでしょう。それは、出会ったすべての人達とかかわり、交わりを共に深めていく中で自分の個性が生かされ、さらに発見があり深めつつ全体も成長するからです。



まず、教会で実験的に取り組むのは最適でしょう。なぜなら、すでに同じ目的で歩んでいるからです。「ホザナフェス」への参加も同じです。最初教会に来られた方は、そのこと自体、単なる偶然や自分の思いだけではなく、それ以上の大いなる力に導かれている出来事として認めてください。自分がこの世に生まれてきたのと同じです。たまたまではありません。人知をはるかに超えた方の計らいで目的をもって与えられた命です。これらを受け入れ始めるだけで、大きく自分の人生の景色が美しく変化してくるでしょう。自分の殻から出てみてください。


































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# by oume-akebono | 2018-05-06 18:10 | 週報メッセージ

ホザナフェス、開催!

お知らせが遅くなってしまいましたが、わたし達あけぼの教会では、
今日から6日(日)まで177.png「あけぼのホザナフェス」177.pngを開催しています!


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「息のあるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」
                            詩篇150:6
「あの空も、海も、すべて創られたものは あなたを讃美する!」

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初日の今日は、70名近くの方が来て下さって、楽しみながら共に主を賛美しました。
ワークショップもキッズタイムも、子どもから大人までみんなで盛り上がりました169.png





















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# by oume-akebono | 2018-05-04 23:54 | 行事

コリント人への第一の手紙 (15章55~57節)    大谷唯信牧師



「死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」



小松博吉兄(渡辺ゆかり姉の父)の葬儀が渡辺淳一、ゆかり夫妻の自宅で行われました。初めは家族を中心にささやかにと聞いておりましたが急拠一転、教会からパイプ椅子40脚が運び込まれ、礼拝堂のように自宅の椅子も合わせて当日は満席。部屋いっぱいに響く讃美、御言葉の中で納棺、告別、出棺と厳粛に進められ、当然別れの悲しみはあるのですが、小松兄のガンとの戦い、キリストとの出会い、信仰によるバプテスマとその後の平安な日々となるまでのいろいろ-不安、心配、疑い、祈り、信仰、許しあうこと、愛し合うこと、等々、小松兄がすべてを神に委ねきった平安な静かな姿にキリストを見ているからでしょう、悲しみを持ちながらもそれを越え、共に神に生き生かされている時でもありました。部屋全体が神の御臨在に満ち、まるで結婚式のような明るさと自由を感じ、ここにおられる全員が心を開いているのが分かります。



小松兄がゆかり姉に連れられて私の所へ来られたのは、昨年の今頃だったでしょうか。信仰を求めて来たのではなく病気で困っていたからです。「あと数ヶ月の命」と言うことも本人は知らず、手の痛い事の方を気にしていました。見ると右の掌がグローブのように大きく赤茶色に腫れ上がり、痛くて痺れるとのこと。すぐに癒やしの祈りをし、翌週に会うことにしました。翌週になってお会いしますと手は完全に普通になっていました。その後検査入院をした結果、ガンも消えました、食欲もありますと元気に言っていました。実に純粋な人と言う事です。以来安心したのか教会に姿を見せません。年が明けてから来られたときは再発とのこと。やっと真剣に求めだしバプテスマを受けたのです。彼が安定して霊的成長が始まりました。



バプテスマはイエスの十字架の死と復活を現します。普通の人は誰も復活など信じません。しかし敢えて神は、これを信ずる者に救いの命を与えるのです。不思議ですね!

























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# by oume-akebono | 2018-04-29 23:50 | 週報メッセージ

(詩篇 4篇6節)         大谷唯信牧師



「主よ、どうか、み顔の光をわたし達の上に照らして下さい」



今年度を私達教会の霊的成長の幕開けといたしましょう。



私達の教会は感謝な事に霊的信仰の核なるものが育って来ました。一人ひとりが霊的信仰に目覚め深められ、教会全体として霊的いのちの核の存在が見えて来ています。石地やいばらの生えた荒れた地ではなく霊に満ちた豊かな土壌になって来ています。魂の救いは霊的信仰の中で起こります。「神は霊であるからあなたがたも霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)は基本です。すぐれた知識も感動的な言葉も又御言葉ですら肉の次元で語られ聞かれる事があり得るのです。否、その方が多いかも知れません。私達も常に注意が必要です。



パウロも語っています。「私達にも福音が伝えられている。しかし、その聞いた御言葉は彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに信仰によって結びつけられなかったからである」(ヘブル4:6)と。「文字は人を殺し、霊は人を生かす。(IIコリ3:6) 又「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(ロマ8:6)いずれも霊と肉の問題です。両者は似て非なるもの、判別しにくいのです。サタンの巧妙さを見ます



ですから、パウロは「どうか、私達の栄光の父が知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように」(エペソ1:17)と祈っています。福音の種は私達の心が豊かな霊的な土壌になるほどに応じて100倍、60倍、30倍となるとの神の約束です。



 まず主のみ顔の光を求め全身に主の光を浴びようではありませんか。太陽は朝ごとにのぼっています。曇りでも雨でもです。神の光も同様で困難や死の谷にあっても絶えず私達の上にあります。ダビデは「み顔をしもべの上に輝かせいつくしみをもってわたしをお救い下さい」(31:16)と祈りました。主の光は全身を照らし暖かさを与えるでしょう。それが主の御臨在です。その御臨在を味わうのが霊的信仰の一歩。「主は我が光、我が救いです。」

























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# by oume-akebono | 2018-04-22 23:44 | 週報メッセージ

ペテロの第一の手紙 (3章8~9節)      大谷唯信牧師



「・・・あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛を持ち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」



新年度を迎え、皆様も新たな課題、目標に心を向けておられる事と思います。わたし達の青梅あけぼのキリスト教会も、新年度の総会を前にして、一年の感謝と共に新たな祈りと信仰に立って歩んでおります。教会はここ数年、目覚ましい成長の兆しが見えるようになって参りました。これは皆様の何年にも亘る祈りと働きに、主が応え祝福して下さった恵みです。



教会は今、明るく元気で、とても活気に満ちています。問題がないわけではありません。しかし、一人ひとりがそれぞれの状況の中で、互いに仕え合う姿は、ごく自然で素晴らしく思います。昨年は、「日常を霊的生活に」をテーマとしての一年でしたが、日常の普段の生活で一人ひとりが信仰によって、地に足をつけ、自分自身の信仰生活、そして家族とのかかわり、教会とのかかわり、職場、また世の人々に対する思いを祈り合う事を課題として、ゆっくりですが取り組んで参りました。



今は、教会の核となるものが育って来ています。一人ひとりが成長しますと教会が成長して、教会が成長しますと、一人ひとりが成長します。成長するとは、霊的に深められ、教会全体に「御霊の実」としての、いのちが満たされてくることです。



昨年度は、受浸者が11名、その前の年が9名、その前の年も9名、この3年間で29名の方が受浸されています。これは教会全体が御霊によって成長している証拠でありましょう。上の御言葉は弟子のペテロの言葉です。あの弱かったペテロや弟子たちが強くされたのは、何だったのでしょう。今年度は、「信仰による霊的成長の幕明け」として初代教会に力を与えた「根拠」を求め、深めて参りましょう。























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# by oume-akebono | 2018-04-15 23:41 | 週報メッセージ

(第Ⅰコリント 1:18)      大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



十字架の言とは十字架の死と復活のイエスです。この死と復活が驚くべき力の根源です。ゴルゴダの十字架のまわりには祭司、律法学者をはじめ多くの人々が見ていました。全人類のための一度だけの歴史的出来事が起きていたのですが彼らにとっては全く無意味な馬鹿馬鹿しい出来事でした。パウロもそのように受け取っていた一人だったのです。彼は自ら述べています。「わたしはヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」と断言する程のしたたかな自信家でした。



しかしイエスの愛の光に包まれて自分と正直に向き合った時「わたしは自分の欲する事は行なわず、かえって自分の憎む事をしている。わたしの欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がない。わたしは欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。ならば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪である」と罪にとりこにされている自分に絶望したのです。



これは現代人も同じで、ここまで正直に自分と向き合い現実を絶望するまで取り組むとは実に勇気のある人です。人間共通の罪の原点に逃げずに取り組んでいるのですから。「わたしは何と言うみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから救ってくれるのだろうか」と主を信じて救われたのです。その瞬間、「神は感謝すべきかな」と讃美に変ったのです。彼は十字架を教理として、自分を生かすために信じたのではありません。罪の自分に絶望しキリストの十字架の死の中に自分を投げ出したのです。イエスの十字架の叫びの中に身を投じたのです。キリストと共に死んだ。そうしたらキリストと共に生きていた。「死は勝利に吞まれてしまった」の信仰宣言に至ったのです。



























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# by oume-akebono | 2018-04-08 15:27 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 6章33節)      大谷唯信牧師



「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」



 先日、久しぶりの方からお電話をいただいた。「今、どこからですか?」「鹿児島です」。幼稚園教育のエキスパートである先生は日夜、全国で研修、講演で走りまわっておられる。「大坂です」「北海道です」と。いつ家に帰られるのかと思うほどだけに「お体にはお気をつけてください」と言う事になる。すると「実は昨年の暮れに脳梗塞をやりまして・・・」であった。「手のしびれが少し残るだけで軽く済みました。お陰でネ!」と続く「これからは食事・睡眠・適度な運動、仕事等すべてについて今の自分に何が一番大切なのかを身にしみて考え取り組んでいます」との事。「今までもわかってはいたんですけど、わかっていなかったんですねー」



 もう一般論ではない。言っている内容は当たり前の事であり誰もが知っている事だ。しかし今の彼にとっては常識論でも概念でもない。すべて自分の固有の出来事である。ここまで中々わからないのだ。今ここで生きているのは、現実の二度とない今と言う瞬間の自分固有の出来事なのに、一般常識の概念で生きていたのです。



 信仰()の領域も同じです。知識も考える事も学ぶ事も大切です。しかしそれが一般の知的概念として捕らえただけでその実体には触れていない、即ち、絵に描いた餅になっているのに気づかない。だから「文字は人を殺し」と聖書は語るのです。



 御言葉の「まず」とは常に最優先。神の国と神の義とは宇宙も自分をも越えた神としか言いようのない大いなる絶対の力と支配です。神の義とは同じく絶対の義、間違いも汚れもない完全な正しさです。求めるとは絶えずそれを信じ続ける事です。文句、不平、失望、疑う事なく求める。そうすれば得られる神の法則です。人は何故疑い争うのか。自分の知識に立とうとしているからです。人には主の復活は大きなつまずきです。敢えて神は「つまずきの石」を置かれたのでした。知識ではなく信仰に立たせるためなのです。


























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# by oume-akebono | 2018-04-01 15:23 | 週報メッセージ