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(コリント人への第二の手紙 4章10節)   大谷唯信牧師



「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身にあらわられるためである」



パウロはその生き方を常にキリストに倣って、キリストの追体験をしていた。それはキリストが「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者はそれを見い出すであろう」と語ったからである。



これは神学、哲学等の知識ではない。現実の日々の命の営みである。聖書の御言葉は命のパンとして食べる。それはイエスを信じすべての生活の出来事を「イエスの名によって」敢えて取り組む事なのである。自分の納得、理解で進むと、パウロはイエスの迫害者となり、ペテロは「サタンよ退け、わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで人の事を思っている」(マタイ16:23)と叱られた。



知識、分別はこの世では大切なものだがその土台は肉である事を知っておかねばならない。復活の主に出会った弟子達の喜びの証しはトマスは受け入れる事が出来ず不機嫌となり反発した。自分の理解度を超えたものは受け入れられないのだ。自分の理解度が中心であり主に従っているつもりでも自分の理解、結局は自分の思いに従っているだけである。自分のものさしで神を測り存在するとかしないとかを決定していく。自分を基準にしているのだ。これがどんなに愚かで高慢な事かに気づくどころか、その逆で自分は正直で賢く謙虚にさえ思えたりする。



イエスはトマスに「あなたは見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」(ヨハネ20:29) イエスの故郷の人達はイエスを見ると「これはヨセフの子、大工のイエスではないか?」と見え、知っているが故にイエスの実体が見えなくなっているのだ。何年もの信仰を持っている者にも同じ事が起るから気をつけよう。イエスの命がこの身に現れるためには日々霊によって「からだの働きを殺す」(ロマ8:13)と秘訣を語っている。

























by oume-akebono | 2019-04-28 17:37 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章13-14節)    大谷唯信牧師



「…肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」



 この御言葉に「あなたがたは死ぬ外はない」と言う言葉と「あなたがたは生きるであろう」という全く正反対の言葉が語られている。この観点で聖書を見ると、ほとんど究極の事として、「死」と「生」について語られている事がわかる。



それも単なる死とか生とかいうのではなく、肉体を超えての永遠の滅びである死と、永遠に生きる命についてである。しかも全人類が例外なく、既に永遠の死に定められているという事。しかし、選びようによっては、望む者にはもれなく永遠の命が得られるように、既に準備されているという事。この情報を提供しているのが、聖書であり、その取次店としてあるのが教会である。



神は私たちを選び教会を誕生させ、滅びゆく人々を救う御業を、この教会を通して進めようとしておられるのである。これは驚くべき事であるが、神は私たちがこれを信仰によって受けとめ、応じる事を願っておられる。冒頭の御言葉はすべての人々に語られると同時に、私たち教会にも語られているのだ。




「肉という我流で生きるなら、死ぬ外はない、神のやり方によって我流を殺すなら生きる。神の導きで生きる者は神の子である。」との約束である。新年度を迎え、私たちはすべての働きをこの「生きる」という一点に向け取り組もうではないか。まず教会を信じ礼拝、祈祷会、献金を聖別し、内側を整える事を主に願おう。
























by oume-akebono | 2019-04-21 17:44 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章19-20節) 大谷唯信牧師



「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。それはわたしの内に宿っている罪である。」



パウロは、自分の意志に反し自分を支配している罪を見、何とかこれを排除し、清い自分になろうと努めたが、全くのお手上げであった。「罪の値は死である」との律法の中で「わたしは何というみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだからわたしを救ってくれるのだろうか」(ローマ7:24)と絶望のドン底から十字架のキリストを見上げ、ただ主に頼るだけの思いでキリストに触れたのだ。長血の女がキリストの衣の裾に触れたように触れたのだ。



その瞬間、罪から解放され、「わたし達の主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」(ロマ7:25)と喜びの声をあげたのである。群衆の押し迫る者としてではなく、罪に絶望した者として、即ち、「わたし達の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それはこの罪のからだが滅び、私達がもはや罪の奴隷となることがないためである。それはすでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」(ロマ6:6-7)ということが起きたのであ



私達もイエス・キリストを信じる信仰によって罪ゆるされ義とされたのだ。かと言って、私達が罪を犯さず完全な人間になったわけではない。罪があっても、キリストの贖いによって神の法廷に於いては無罪とされたと言うこ

とだ。



一体人間は何故罪を犯すのだろうか。それは神を離れ、肉となり罪の支配に身を委ねてしまったからである。クリスチャンになっても、この世では肉の幼さが常に私達を支配してくる。これは毎日の現実である。しかし恐れる必要はない。御言葉が、「死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ、自分の肢体を義の武器として神に捧げるがよい。そうすれば、罪に支配されることはないからである。」(ロマ6:13-14)と約束して下さっているからである。























by oume-akebono | 2019-04-14 17:48 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章22-23節)   大谷唯信牧師



「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」



昔も今も変わらないことがわかる。人間はどこか神秘的で神がかり的な力を求めそこに嵌まる。一方、最も進んだ科学的知識や人間としての深い知恵や教訓から自分の納得した生き方を求め何らかの平安や自信を得ようと自分なりの努力をする。このような風潮の世の人々にパウロは「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言うのだ。世の人々の反応はどうなのだろう。パウロは語る、「このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが・・・」と。



全く今も昔も変わらないではないか。その通りである。この世は変わらないのだ。神から離れてしまった我々人間は、常にしるしを求め知恵を求めるが、所詮、自分の空腹を満たすためであり、決して神の御心を満たすためではないのである。二千年前もそうであり、これから二千年たっても同じであろう。パウロはこれに気がついたのである。どんなに立派な宗教家になっても、博識ある学者になっても、又、人のために尽くしても結局は自分の満足のためを脱してないことを。



パウロは十字架のキリストの中にこそ自分の探していたものがある事を発見したのである。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」と身をもって体験したことを語っているのである。すぐれた言葉や知識を用いない。キリストの十字架を無力なものにしないためであった。


























by oume-akebono | 2019-04-07 17:51 | 週報メッセージ