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(コリント人への第一の手紙 12章25-27節) 大谷唯信牧師



「あなたがたは、キリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば他の肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、他の肢体もみな共に喜ぶ」



ここに私達の目指す教会を見る。信仰の出来事である。教会には人の数だけのタイプの方々がおられ、これらが一つになる事はまず出来るものではない。



しかし、キリストの教会では、もし私達が切に願い求めるならば出来るのである。それは組織ではなく、人の信念や理想でもなく、また人の主義、価値観でもない。それでは何か!これこそ御霊なるキリストの命によって得られる一致であり、あらゆる違いを超えて一つとされていく神の力、神の恵みなのである。



人は普通、意見の一致、理解、納得によって一つとなろうとする。人との関係だけである。これでは弱い。崩れやすいのだ。私達は、イエスを信ずる信仰によって湧き出る命の泉を持っているのである。井戸はそれぞれ違っても、地中深くでは同じ地下水でつながっている。互いに同じ命の水で生かされている。私に与えられている命が、相手の中にもある。この不思議を、パウロは「キリストのからだなる教会」と言った。



これは教理、神学ではない。キリストの命の自然な営みを言ったのである。議論や研究で深まるものではなく、ただキリストを信ずる幼子のようなひたむきな信仰によって得られるのである。
















by oume-akebono | 2019-03-31 14:20 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 2章19ー20節) 大谷唯信牧師



「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」



この世は常に神を無視し、神を認めず、神を中心にではなく自分を中心に生きている。聖書はこの自己中心を神から離れた状態として「罪」と言う。即ち人間が本来あるべき場からずれ、的を外している状態、ピントがずれていると言う事だ。



自分の力を信じてどんなに努力し、真面目に取り組んでも、又、それが正しい事であっても、この根本のエゴと言う「ずれ」の軌道修正をしない限り、やればやる程、ますます「ずれ」もひどくなるのは当然であろう。現代社会のこの百年の科学文明の進歩は驚くべきものだ。



それなのに何故社会は暗さを増していくのだろう。それは今までの取り組みはほとんどが人間の外側への取り組みなのだ。肝心な人間の内面への取り組み、「罪」と言う根本的な内面のずれはそのまま許しているからだ。最新の機械を使っているが、消毒していない手で手術しているようなものである。パウロはこれに気がついた時、思わず「わたしは何というみじめな人間であろう。誰がこの死の体からわたしを救ってくれるだろうか」と叫んだ。



今こそ私達現代人はこれに気づかねばならないのである。エゴの自分は十字架に死に、キリストがわたしのうちに生きていると告白する者とならねばならない。キリストの十字架だけが罪を清める事ができるからである。





















by oume-akebono | 2019-03-24 16:16 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 9章6節)  大谷唯信牧師



「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は豊かに刈り取る事になる」


種をまかずして刈り取りを待つ農夫がいるだろうか。もし、いるとすればそれは正気とは思えない。人生も同じである。人生の営みはすべてが種まきに譬えられる。詩篇126篇では「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」とあるが単に種まきの事に留まらず、これは人生における豊かないのちの法則を語っているのである。



パウロは人々に警告として厳しい口調で「まちがってはいけない。神は侮られるような方ではない。人は自分のまいたものを刈り取る事になる。即ち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」と語っている。私達の働きは肉にではなく霊にまく者となっているだろうか。



同じ行動をしても霊にまく者と肉にまく者とでは滅びといのちほどにちがいがある。イェスが「地上に宝をたくわえてはならない、天に宝をたくわえよ」と言われたのも同じである。「わたし達は善を行う事に、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラ6:9)の御言葉もいずれも霊にまく者への天からの祝福を示しているのである。



私達は教会を愛し支えるあらゆる働きが真実に神の御栄えのためであり、決して肉にではなく霊にまくものであるよう祈り努めようではないか。



















by oume-akebono | 2019-03-17 15:12 | 週報メッセージ

コリント人への第二の手紙 4章10節)  大谷唯信牧師



 「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」



 教会とは本来、罪や病で苦しんでいる人々を救いに導き、神の愛に生きる希望を発見できる、活気に満ちた場である。ところが、今日その力を失っている教会が多くあると聞く。一番の原因はそこでのクリスチャンが福音を客観的な教理として受け入れ、それで良いと思っている事だ。



聖書を外側から見て、知的に学び理解している。その教理が正統的かどうかを議論し、賛成したり、異論を唱えたりで満足してしまうのである。そこには既に命がない。パウロの語る教理は、自分の直面した体験から出ているのである。決して一般論を述べているのではない。自分の体験した命を証しているのだ。



私たちもこれを追体験しようではないか。イエスのいのちが溢れ出るには、どうしたらよいか。自分で考え、取り組むべきであろう。「受けるより与えるが幸なり」とはどういうことか、自分で実践してみれば良いのだ。それが本当かどうか分かるではないか。



「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがる」これが実現した時、わたしの人生は一変したのである。それはイエスの十字架にあった。十字架なしには命はあり得ない。それをパウロは「いつもイエスの死をこの身に負うている」と述べた。教会にも私たちの中にも、「イエスの命」が既に現れていることを信じ、大切にしよう。


























by oume-akebono | 2019-03-10 16:07 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 3章3節)   大谷唯信牧師



「・・・だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。



まずはイエスを信じてみて、はじめて見えてくる命の世界である。それ以外では、絶対に見えない。ニコデモはサンヒドリン議員の最長老格の地位にあり、律法では厳格なパリサイ人であり、教師であった。多くの人々からも尊敬を受けていた人物とも言われている。社会的にも人間的にも飛び抜けて立派な正しい人であったのだ。その彼が「新しく生まれなければ」と、即ち、彼の全存在が全面否定されてしまった。



何に対してか、と言うと「神の国を見るには」であり、つまり「神の命に生きるには」と言う事である。では誰が「神の命」に生きられるのか。どうすれば「神の命」を得ることが出来るのだろうか。ニコデモは「もう一度母の胎に入って生まれるのでしょうか」とさえ訊いている。そこでイエスは「だれでも、水と霊とから生まれなければ、・・・」と答えられた。



水とは荒野のヨハネのメッセージの中心、アダム以来の肉の埋葬を意味する。「霊」はイエスの贖いによって、新創造による神の命の誕生の事である。キリストの名によるバプテスマは「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。(ガラテヤ219-20)との信仰告白でもある。



この世でどれほど立派で人格者であっても、「肉から生まれたものは肉である」。また、どれほど罪深く駄目なものであっても、「霊から生まれるものは霊である」。とイエスは言われた。どれほど求め、努力し訓練しても「肉は肉である」。決して神の命にはならない。しかし、多くの人が古い自分から脱皮して、新しく神の命に生きたいと思うには思っている。だが得られない。分からないからだ。否、分かろうとしているのだ。分かってから信じようとしている。



今も昔も変わらない。分からないから受け入れないのだ。逆である。聖書は「受け入れた者、その名を信じた人々には、神の子となる力を与えた」。とある。分かるのではない、「まずは信じる」。その信仰によって神の命に開かれ生かされるのである。





















by oume-akebono | 2019-03-03 19:03 | 週報メッセージ