(ローマ人への手紙 12章10-12節 )    大谷唯信牧師



「…互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」



 教会の成長と私達の成長は一つである。しかも成長は神から賜った生命によって神が成して下さるのである。これを受けるには私達が祈りの中で御言葉を実践し、一人一人が生活の中でこれを味わい、自分の体験としての証しを持つことであろう。「この御言葉は本当だった」と確信を持って言い切れるあなたになることだ。サタンの巧妙さに陥らないためである。



サタンの目的は一つ、私達をキリストから、教会から離れさせ、信仰を駄目にする事である。それにはまず喜びと祈りと感謝を奪うのが一番手っ取り早い。気をつけよう。とにかく祈るのだ。常に祈り、主と共にいる思いを持ち続けよう。祈りによって教会に仕えるものは決してつまずかない。御言葉による祈りには神の力が注がれ、困難や障害さえも神の恵みとして感謝に変えられる。



しかし、感謝のできない出来事にぶつかることも勿論あるだろう。その時こそ信仰によって神に感謝し、神の最善を信じ祈るのである。次に大切な事は霊に燃える事である。赤々と燃えるストーブは何と暖かく何と魅力的であろうか。私達はそのような自分、そして教会になろうではないか。すでに火種は灯され、霊の火は燃えているのだ。これを信仰によって受けとめ大切にしよう。



主の願っているように霊に燃え、主に仕えよう。今や私達が熱源となって互いに尊敬し合うのだ。誰に対してもいつくしみと尊敬の思いをあふれさせよう。受けるより与える者になるのだ。信仰を持って天に宝を積む者となろう。日々、御言葉を実践する者となれ。人からの報いを求めてはいけない。そうすれば神の時の中であなたの人生の流れが静かに、しかし確実に大きく変化していく。望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈り続けようではないか。



























by oume-akebono | 2019-02-24 14:00

(エペソ人への手紙 4章16節)     大谷唯信牧師



「キリストを基として全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」



何と力強い御言葉であろうか。これは、私達がキリスト者としての成長と同時に教会の成長を語っているのである。この両者は決して分離する事はできない。教会なくしてキリスト者の成長はあり得ず、又、キリスト者なくして教会の成長はあり得ない。



何故なら両者はキリストにあって一つのものだからである。しかもキリストが頭であり、私達はそのからだであってその逆ではない。その命はキリストから流れ込んでくるのである。「わたしにつながっていなさい。そうすれば実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)



これはキリストによる御霊の命の働きについて示しているのだ。電源につなげば電流が流れるように教会につながっていれば御霊の命が注がれ「御霊の実」が豊かに結ばれる事になる。さらに「あなたがたが豊かに実を結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15:8) と主は語られる。



私達は父の栄光を現わす教会となる事を祈ろうではないか。御聖霊は私達の肉の働きに気づかせて下さる。互いに許しあい励まし合って仕え合うのである。「わたし達は、お互いに肢体なのであるから」(エペソ4:25)。サタンにつけ込まれないように御言葉に立つことにしよう。

























by oume-akebono | 2019-02-17 15:14 | 週報メッセージ

(詩篇 23篇4節       大谷唯信牧師



「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」



 聖書、特に詩篇を読むごとに新鮮な驚きがある。ダビデの絶対的な神への信頼姿勢である。どんな窮地に追い込まれようと、どんな逆境に立たされようと神への信頼はゆるぎなく絶対的な信頼として保持していくその姿勢である。嬉しくても悲しくても、強い時、弱い時、もう何もかも信じられなくなってしまった時、ますますダビデは神への信頼を絶対的なもの、生きている自分の命の大前提として位置づけていくその信仰には圧倒されるのである。



「まず自分の内側を整える」とはこう言う事なのだ。自分に今、信仰があるのか、どうか、自分は肉なのか霊なのかを自分に問うのではない。そんな事は何の役にも立たない。自分に不信仰、肉を見たならば直ちに自分から目を離して主を仰ぎ見る事が大切なのである。自分を整えてから主に従えとささやくのはサタンである。



のどが渇いたなら水を飲むではないか。「何故、のどが渇いたのか、渇くとはどういう事か?」等といつまでも議論をしているだろうか。「とは言っても水にもいろいろある・・・」と議論は際限がない。水は単純に飲む者であっても信仰となると議論ばかりを延々として一向に飲まない人や教会が増えている。しかも議論をして何か納得すると飲んだ気になってしまうから困るのである。サタンの思う壺だ。



ダビデは直ちに「主よ、わたしをあわれんで下さい。わたしは弱り衰えています。悩み苦しんでいます」と主を仰ぐ。これが「霊の思い」とされ真実な生き方に目が開かれる時なのである。


























by oume-akebono | 2019-02-10 14:10 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 3章1節)   大谷唯信牧師



「…あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。…上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」



 神は私たちが日々新しく造られる事を、願っておられる。神はそれがお出来になる御方である。しかし、神は一方的にそれをなす事はされない。私たちの協力を必要とされている。それは私たちの思う「思い」なのである。すべての行動は、行動を起こす前のこの「思い」から出て来るからである。私たちは常に変化する現実の中で、いろいろな思いが絶えず出て来る。ここで大切な事は、良きにつけ悪しきにつけ、その中のどの思いを選び取るかによって、自分の行動が全く違ってくるという事だ。



そこで御言葉は語るのである。「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」と。初めは「そう言われても、地上のものに心を引かれてしまう」との思いも出てくるだろう。だからこそ、それ以上に上にあるものを求め、上にあるもの、その時心の内に示されているものを思い続けるのだ。必要に応じて御言葉を味わい、集中して思い続ける。忙しく動き回るのでなく、心を静め御言葉に深く沈み込み、御言葉が自分の思いと一つになるまで思い続けるのである。



「信じなさい」「託しなさい」「愛しなさい」等の御言葉に接し、自分の課題として示されたならば、読み流してしまうのではなく、御言葉を通し自分の内面を深く吟味するのだ。足りないところを突き示されたならそれを直視し、自分ではどうにもならないと観念して、あの放蕩息子のように、「私はここで死のうとしている。父よ許してください。」と上を仰いで悔い改め、十字架の主にそのまま全託するのである。



主の前に砕かれることである。主に委ねて、主に従う決意を新たにした時、ご聖霊が助け満たし平安に変えて下さるのである。反省して自分で何とかするのではない。主の前で砕かれるのだ。自己破産して主に任せるのである。



























by oume-akebono | 2019-02-03 17:06 | 週報メッセージ