(コリント人への第一の手紙 1章18節)     大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



教会は魂が救われ永遠の命が与えられるだけの場ではない。人間としての人間性、人格が常に成長し、「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」(エペソ4:15)場でもある。



この世に於いても人間的成長については以前より関心が持たれているように思う。それは教育的と言うより社会的な課題にさえなって来ているのではなかろうか。多くの人々は社会的問題、教育的問題、学校の有り方、家族の有り方等に解決の道を求めようとするが、どんなに研究され議論されてもその流れは変るものではない。肉は肉だからである。どんなに磨いてもガラスはガラス、決してダイアモンドにはならない。エゴはどんなに着飾ってもやはりエゴで変わらないのである。



しかし、イエスの十字架の力はエゴを砕き、私達の内面を神のいのちに代えて下さるのである。イエスを信じる信仰に神のいのちが注がれるからである。もし、イエスの十字架を私の人生への出来事として信じ受け入れるなら、誰もが神のいのちが注がれて新しくなる事ができるのだ。



もし、これを本当に必要としているのなら、自分の常識では受け入れられないと思っても思い切って信じて見るべきであろう。自分の殻を捨て新しい自分にして下さいと神に本気で求めるなら、思いもよらない時に、「あっ、これだ!」と本当に信じられる事が起るのである。チャレンジしてみてはどうだろう。





























by oume-akebono | 2018-12-30 15:03 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章18-19節 )      大谷唯信牧師



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。わたしたちが愛しあうのは、神がまずわたし達を愛して下さったからである」



クリスマスとは「神がまずわたし達を愛して下さっておられる」ことの出来事である。どれほど愛して下さっておられるのか。「独り子を給うほどに」である。それも神は「わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と語られている。



もし、あなたがこのキリストを受け入れ、自分の罪を悔改めバプテスマを受けるならばあなたは救われ、罪許された者として神の子とされ神の愛が豊かに注がれる事になるのだ。神の愛は完全な愛である。私達はこれを信じ受け入れようではないか。新しく人生が始まる事になる。愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。これが現実にあなたの中に起ってくるのである。



この世は恐れと疑いに満ちている。国と国が、人と人が恐れ、疑い、争い、怒り、憎しみの縄目から出られないではないか。何とか平和のバランスは取っているがいつ爆発するかわからない状態がこの世であり私達ではなかろうか。互いにつかず離れずの安全距離を保っているに過ぎない。



しかし、神は人間を本来、神の愛そのもので創造されたのである。だから私達の中に切に愛を求める心があるのだ。愛は神から出るものなのである。しかし、人は神を認めず信ぜず、信ずるのは自分だけとなり神中心の本来の姿から自分中心のエゴと言う聖書では罪と言う姿になってしまっている。今や全ての人が生まれつきそうなっているのでそれが当り前で別に悪くはないと思っている。しかも自分は他よりも正しいと思っているのだ。これがエゴの特徴である。エゴは自分の罪に対して盲目にする。神の愛は目を開くのである。イェスが来られた。あなたの心をノックしておられる。これが本当のクリスマスなのである。




























by oume-akebono | 2018-12-23 21:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章21節)     大谷唯信牧師



「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。…」



パウロは、キリストを信じる信仰によって得たイエスからの知識に余りにも絶大な価値があるが故に、今まで最高の権威と自信になっていた全ての業績や誇りが、損と思うほど無価値な意味のないものに見え、全てがふん土のように見えると言ったのである。



彼の誇りは民族、家柄、さらにはへブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者、即ち完全無欠と誇っていたのである。それを言い切れるほどの実力者であった。現代のノーベル賞、オリンピックの金メダルの段ではない。その歴史、伝統、人間としての尊厳、しかもあらゆる知識にも通じ、同時にテント職人としての技術も持ち、貧にも富にも処して生きることが出来る、正にユダヤ人特有の最高の教育訓練を受けた者であったと言える。だから神は彼を伝道者として召したのであろう。



パウロはキリストの愛に触れ、一瞬にして魂が砕かれた。それはキリストを迫害せずにおれないほど神を求め真実を求め、命がけであったからだ。何を求めても心を満たす平安が得られず、この世の富も地位も神の律法の中にも見い出せず、渇いていたのである。故に主の光が入った瞬間に、自分の全ての内にキリストの命が入った。全てが変わった。「わたしは福音を恥としない」、「生きるのも死ぬのも主のため」、「わたしはキリストと共に死んだ。わたしが生きているのではない。キリストがわたしの内に生きておられる」と次々と自分の生きる意味、否、全人類の本当の生きる意味と救いが明確に見えてきたのである。それは何故か。自分の側から神の側に立ち返ったからである。



受胎告知を受けたマリヤも自分の側から神の側に立ったのだ。初めは「まだ夫がありません」と動揺した。しかし、聖霊の御業と聞くと、「お言葉通りこの身になりますように」と受け入れた。神の側に立ち、素直に従ったのである。






























by oume-akebono | 2018-12-16 21:54 | 週報メッセージ

(ピリピ人への手紙 3章12節)      大谷唯信牧師



「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」



心に渇きを覚え、さらにイエスの命に満たされたいと願うのは、それ自体すでにイエスに捕えられているからだとパウロは語る。しかし自分の実感としては、自分の罪深さによってイエスから遠い者と思ってしまう。そんな事はないと言われても「やっぱり救われていないのでは…」と思えてしまう。



サタンはこの時、この思いに入り込むから気を付けよう。サタンは信仰に立つのではなく、自分の実感からの感情に立たせようとする。御聖霊はさらに深く信仰に立たせようとされる時、まず「罪と義と裁きとについて目を開く」(ヨハネ16:8)のである。自分の罪や汚れが今まで以上に見えてくる。喜びや平安も消え、暗い中で自分の弱さばかり見え、何とかしたいのだがどうにもならない。



実はこの「どうにもならない」ところに主の訓練があるのだ。今までの救いについての教えは、他の人から教えられ聞いたものであろう。それは一つのきっかけであり入口なのだ。ここからが自分の本物になるための主の訓練が始まるのである。自分の感情や感覚に振り回されるのではなく、信じる信仰に立つ事を学ぶのである。自分の力で何とかするのではない。自分の罪と弱さに正直に直面し、キリストの十字架を見上げ、すべての罪と共に十字架のキリストに託するのである。



「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。即ち、私たちはその死にあずかるバプテスマによって彼と共に葬られたのである」(ロマ6:3-4)。即ち、キリストと共に死に、キリストと共によみがえる信仰に立つのである。そうすれば、あなたは自分の体験としてイエスの実体に出会う事になる。これを求めること自体、すでにイエスに捕えられているのだ。





























by oume-akebono | 2018-12-09 23:46 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 3章21~22節)    大谷唯信牧師



「しかし今や、神の義が、律法とは別に、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」



私達教会がここ迄成長してきたのは神の導きであり、一人ひとりの祈りと奉仕への恵みである。しかしどうであろう。近頃、信仰生活がどこかマンネリ化している事はないだろうか。日々成長している新鮮さや今取り組んでいるものへのドキドキ感、主にあっての自分への張りのある期待感、解放感があるのだろうか。



人生全般にも言えることだが、マンネリ化は誰にでも起こり得る。信仰生活では特に起きやすい。いつの間にか状況に流され受け身になっている。取り組んでいることに慣れてしまって、可もなく不可もなく順調ではあるが何か物足りない。どうか自分でチェックして欲しい。生きているのは自分なのだから、「自分は今自分の心に納得した生き方になっているか」又、「自分はどう言う人間、また、クリスチャンになろうとしているのか」、即ち信仰の目標と課題を持つことだ。



同時に教会のメンバーなのだから「教会は今どんな状態なのか」、「自分はこの教会をどんな教会にしたいのか」「そのために、自分は何をしたら良いのか」等と自分個人の目標と教会全体の目標という二つの課題を捕らえて自分の役割を把握することは大切だ。そうすれば傍観者とはならず、すべての働きが意味ある新鮮なものになってくると思う。



ところが実際、諸教会の多くがそうなってはいない。無気力の中に漂っている感じである。何故だろうか。御言葉に帰ろう。信仰生活の基盤は神の義である。それは私達に対するキリストの十字架の血による絶対的な贖いによる赦しにある。パウロは「物わかりの悪いガラテヤ人よ、十字架につけられたキリストがあなたがたの目の前に描き出されたのに…」と嘆いている。十字架の出来事は過去ではなく「永遠の今」と言う今、現在の霊的出来事だ。あなたには、自分のために血と涙を流して叫んでいる十字架のイエスが見えるだろうか。思い描き、祈るのである。






















by oume-akebono | 2018-12-02 17:48 | 週報メッセージ