(イザヤ書 43章 18~19節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえの事を考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道をもうけ、砂漠に川を流れさせる。」



パウロはパリサイ人であり、律法学者であり、神の言にはすべてに通じている者であったが、本当の意味は分からなかったのだ。その証拠にイエスを迫害する者になっていった。彼は神の律法に取り組み忠実であろうと、誰よりも真剣だったのである。それだけに苦しかったと思う。


でも何故本当の意味、聖書の語る真実が分からなかったのだろう。それは聖書の言葉を自分の知識で理解し、自分の頭で納得し、自分の力で行うことができるように努めていたからである。


彼は気付いたのだ。神の言葉は自分の知的理解で制限するのではなく、まず信じて受け入れ、そのまま味わってみる。そういう謙虚で素直な幼な子のような心が必要だと。その時その言葉を語られている御方の心の真意が伝わってきたのである。「自分なりに」とは聞こえは良いが、受け入れきれないものは拒絶し、反発し、批判し…と心は閉じてしまう。これでは自分以上のものは受け取れない事だ。成長とは自分の殻を破る時に起こる。するとパウロは実感した。「誰でもキリストにあるならば新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。



初代教会の「使徒信条」を記しておこう。


「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。」



































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by oume-akebono | 2018-10-28 18:08 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 4章19節)      大谷唯信牧師



「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」



パウロはガラテヤの諸教会の不信仰を嘆いて語っているのだ。何が原因なのだろう。もう少しパウロの言葉を聞いてみよう。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか(ガラテヤ3:1)と大変な剣幕である。「わたしは、ただこの一つの事を、聞いてみたい。」「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。」と激怒しているのである。パウロは多くの事を言っているのではない。「ただ、一つの事を…」と言っている。問題はこの一点なのである。



 これはわたし達にとっても他人事ではない。謙虚に自分の事、私たちの教会の事として受け取るべき事ではないだろうか。確かに私たちの教会は神の祝福を沢山受けている。先週の及川久・恵子夫妻の結婚式にも、わたし達の想いを超えた主の恵みを見た。正に奇跡の連続である。サタンが入り込むのは、こういう時なのだ。わたし達の思いを肉に引きずり込むのである。「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。」とこれは叱咤激励である。ペテロも最後の晩餐の時、優位に立って忠誠を誓った直後の言動でイエスから「サタンよ退け、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱り飛ばされている。いずれも肉と霊の問題なのだ。


わたし達はさらに肉を捨て霊に生きる事を主に祈り信仰によって歩もうではないか。御霊は御言葉を信じ従う信仰の中に働いて下さる。すでに主は救いを完成させ御霊の九つの実を私達に与えて下さっておられるのだ。肉を見たなら嘆くのではなく、感謝して主の十字架に捨てる事を覚えよう。


























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by oume-akebono | 2018-10-21 13:04 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章19節)    大谷唯信牧師



「わたし達が愛し合うのは、神がまずわたし達を愛して下さったからである」



私達は常に教会の成長を願っている。子供の成長と同じく教会は日毎に変化し成長していく。何故なら教会にはキリストの体としての神の命が注がれているからだ。つまり私達に神の命が注がれていると言う事である。神は愛である。「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、私達の罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)「彼によって私達を生きるようにして下さった」(Ⅰヨハネ4:9)



愛する愛も、生きる命も根拠は自分ではなく神でありキリストの十字架にあるのだ。世の人々はこれを知らず一切の根拠を自分に置く。だから問題が起きるとすぐ力が尽きるのである。またどんなに善い事をしても愛しても自分が根拠であるからエゴを脱する事が出来ない。



人間を駄目にし不自由にしているのはこの自分の中にいるエゴなのである。しかし世の人はエゴが発揮できた時、自由を感じ生きがいを感じる。自己実現は嬉しいものだ。喜びである。ところがどうだ、エゴが通らないと悲劇のヒーローになってしまう。これこそ悲劇ではないか。これほど本来の自分の立つべき所からズレてしまっているのだ。今の世の政治・経済・社会をこの観点から見るとあらゆる問題が、即ち国際問題から個人一人ひとり、夫婦親子の問題までこの本質からのズレが原因と見えてくるのではなかろうか。しかし私達は他者にある問題点は見事に見えるのだ。肝心な自分の中にあるエゴには目が向かない。「自分なり」の正しさの中にいるからだ。捨てるべき自分を良くも悪くもかかえ込んではいないだろうか。



もう一度初心に帰ろう。教会は得る所ではなく捨てる所なのだ。パウロは「わたしは何とみじめな人間か」と投げ捨てた瞬間、主の光の中にすでにいる事がわかった。神がまず私達を愛して下さっておられるからである。





























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by oume-akebono | 2018-10-14 13:12 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 3章16-17節)    大谷唯信牧師



「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」



神がわたし達に賜った救いとその恵みは、わたし達の思い、考えをはるかに越えている霊的存在である。キリストの十字架の御業は単にわたし達を救って下さると言うだけではない。それは神の選びによってこれから神の示す道を歩ませるためのアブラハムの第一歩なのである。誰でも「からし種一粒」の小さな信仰から始まる。誰でも人は赤ちゃんとして生まれるではないか。一人として大人で生まれてくるものはいない。



しかし人はニコデモのような立派な学識を持ち指導者として尊敬される地位を得る者になってもイエスは彼に「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ33)と言われた。神の命の世界ではこの世の知恵、地位は全て関係がないのである。さらにイエスは「誰でも幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)と言っておられる。



これらは霊の世界の領域なのだ。霊の領域をこの世の知識の尺度で計ってわかるものではない。霊の領域は幼な子のように純粋で素直に認め受け入れる。実に最も単純な幼な子で良いのである。もし「わたしも信仰を持って歩みたい、救われたい」との願いがあるならそのように決断し一歩進めるべきであろう。何故ならそれは御聖霊があなたをノックしておられるからだ。聖霊の働きかけがなければ人はイエスに対しても、救いに対しても全くの無関心で気にもならないのが普通である。教会にまだ来られた事の無い人でもこれらに関心の心が動くならばすでに御聖霊は働いておられる。まして教会に来られているなら確実に御聖霊は「内なる声」として語りかけておられる。しかも「からし種一粒」の信仰から30倍、60倍、100倍となる生命の力を約束されている。この一粒で聖霊の住まわれる「神の宮」とされているのである。






















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by oume-akebono | 2018-10-07 14:25 | 週報メッセージ