(エペソ人への手紙 6章10-11節)     大谷唯信牧師



「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい。」



パウロはクリスチャンに「強くなれ!」と言っています。決して「弱くてよい」とは言ってはいません。しかし「誰でも困難にぶつかった時、わたしも弱らないでおれようか」と正直に自分を見ています。自分の弱さを誰よりも知っているのです。そこで祈りました。三度もです。その時、主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との啓示を受けたのです。心の内に声を聞いたのです。



「パウロはいいな!わたしはそんなこと言われたことはない」等の思いもあるかもしれません。しかし特別なことではなく、何かを本当に困って切実に求めるものには、何らかの気付き、思い、人の声、言葉等々からひらめきのように内に示されることは日常的にあるものです。特に御言葉からくるものは霊的な法則として真実を語っていますので、パウロが受けた主の言葉でも、今わたしに与えられた言葉としてあなたが受け入れるならばそのようになります。彼は弱さを悲しんではいません。「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と大胆に宣言し、「弱さ、侮辱、危機、迫害に甘んじよう」と喜んで堂々と立ち向かっているのです。何が根拠でしょうか。パウロが述べてきます。「なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と。主の御言葉です。



かつてパウロは恐ろしいほどに強く自らを完璧の如く高慢になり、自分の身分、能力、地位、すべてを誇り「律法の義については落ち度のない者であった」と絶対者の如く振る舞い、命がけで教会を迫害しキリスト者を捕らえ殺していたのです。しかしキリストの光に照らし出された時、初めて自分の罪を見せられ、もはやわたしだけではなく、全人類が心の奥に宿っている罪の法則に閉じ込められ罪の奴隷とされ、すべてが肉の働きになってしまっている現実を示されたのです。聖なる律法に従うことによって罪の法則に落ちたのです。サタンの与えた知識の実の罠でありました。この世の人類は未だに、それを食べ続け、他を支配したいのです。




























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by oume-akebono | 2018-06-24 17:03 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章18-20節)   大谷唯信牧師



「…善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。…」



誰でも心の中にこのような葛藤を経験したり、後悔をする悲しみを負ったりしていないでしょうか。



パウロは家柄、能力、身分、全ての点で恵まれ、自信にあふれていました。イスラエル人としてのエリート中のエリートとして、実力を誇っていました。「へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、…律法の義については落ち度のない者」と自らを絶対的な、ほとんど完璧な者として自負していたのです。律法では最初に神以外のものを神としてはならないとあり、十戒の一つでも破ったものは石で撃ち殺せとされていた時代です。彼は、徹底的に教会を迫害し、神殿から兵まで出して、キリスト者を捕らえたのです。自らを「熱心の点では教会の迫害者」とまで言うほどでした。



しかし、キリストの光を心に受け、自分の心の奥の奥に、自分の意志や信念ではどうにもならない悪が入り込み、自分を支配していることに気づかされたのです。しかもそれは、「…もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と言わしめるほどの告白となったのです。それは単に自分の責任逃れ等の個人的な軽いものではなく、全人類を支配している強大な力-「…善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」、即ち、心では神の律法を喜んでいるが、「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、…罪の法則の中に、わたしをとりこにして…」と、私たちを罪の奴隷にしている悪、サタンの強大な支配-を発見したのです。



現在でもほとんどの人がこれに気づかず、認めようとはしません。自分の力で戦い、敗北の連続であっても気づきません。パウロには、「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と、戦う相手がはっきり分かっていたのです。自我の知識(罪)は私たちを盲目にします。イエスの十字架の言葉は神の力であり、ただそれによってのみ自我を砕くことができるのです。


























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by oume-akebono | 2018-06-17 14:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 5章16節)   大谷唯信牧師



「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」



パウロは肉によってイエスを知った時どうしたのでしょう。誰よりも激しくイエスとその弟子達、信者達を迫害し苦しめたのです。ではどうして迫害をやめ、それどころか自らを「キリストの僕」と称し、正に命がけでキリストの福音を伝える者となったのでしょうか。この驚くべき変化は何故起きたのでしょう。それはイエスの外側の肉ではなく、内側の霊的実体に触れたからです。



イエスは「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ424)と言われました。霊とまこととをもってとは、どういう事でしょう。今という瞬間々々に真心をぶつけて自分を生きているか否かを神の前で問う事です。霊的に生きるとは、実在の中に生きる事です。



たとえばあの12年間も病で苦しんでいた貧しい女性です。必死になって群衆の中を押し分けてイエスに触れました。その求めた中に見る事が出来るでしょう。その時、弟子達を始め多くの人が肩を押し合いイエスに「押し迫っていた」のです。しかしイエスに本当に触れたのは、この女性一人以外いなかったのです。ところが「押し迫っていた」多くの人々は、自分たちはイエスに触れていると思っていたのです。また、「富める青年」は群衆からイエスの前に飛び出してひざまずき「永遠の命」について尋ねたのです。「何と謙虚な立派な青年だろう」と人々は思った事でしょう。



しかしイエスが応えるごとに「それは小さい時から守ってきました」とまるで「そんな事は昔から知っていますよ!」と言うのです。実体なるものを知識で学び知る様に実体から遠くなっている現実が見えなくなっているのです。現在、このような状態になっている諸教会が増えています。「教会の祈り」を本気で取り組みましょう。サタンは巧妙にすべてを肉の働きに押し流そうとしていますから、油断してはいけません!























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by oume-akebono | 2018-06-10 13:49 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 22章37-40節)    大谷唯信牧師



「心をつくし精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。これら二つのいましめに、律法の全体と預言者とがかかっている。」 



神の私達に対するテーマは常に愛に生きると言う事である。第一があって第二がある。そしてこの二つは一つとされていく。互に愛し合う事に反対を唱える者はいない。皆、愛を求めている。しかし第一が抜け落ちているのだ。愛を本物にしていく秘訣を聖書は語る、「神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネⅠ4:10)だから「わたし達も互に愛し合うべきである」と。



即ち、神の愛に立つべきなのだ。この愛が抜けているならばわたしが全財産を人に施ししても、また自分のからだを焼かれるために渡しても一切は無益である」(I コリント13:3)とまで聖書は言い切る。この世はすべて神の愛によって創造された。私達もそうである。しかし、この世は神を認めず神の愛を失い、自分中心のエゴの愛で現在に至っている。そのためにこの世には神の愛なる愛はない。あるのは人間中心のエゴの愛であり本当に共に一つになる力は全くないのである。近頃の世界情勢を見よ。昔と同じく互いの武力の強さによって牽制し合っているだけの危ういものではないか。パウロは「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているならあなたがたは互いに滅ぼされる。であろう」(ガラテヤ5:15)と語っている。



この世はそれしか出来ないのだ。だからパウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない」と命じているのである。この御霊によって神はキリストのからだなる教会をつくり今の私達をも召してキリストの証人として立てて下さったのである。「神は万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」。私達は臆することなく主の証人としての恵みにあずかれるのである。


























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by oume-akebono | 2018-06-03 16:38 | 週報メッセージ