コリント人への第一の手紙 (15章55~57節)    大谷唯信牧師



「死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」



小松博吉兄(渡辺ゆかり姉の父)の葬儀が渡辺淳一、ゆかり夫妻の自宅で行われました。初めは家族を中心にささやかにと聞いておりましたが急拠一転、教会からパイプ椅子40脚が運び込まれ、礼拝堂のように自宅の椅子も合わせて当日は満席。部屋いっぱいに響く讃美、御言葉の中で納棺、告別、出棺と厳粛に進められ、当然別れの悲しみはあるのですが、小松兄のガンとの戦い、キリストとの出会い、信仰によるバプテスマとその後の平安な日々となるまでのいろいろ-不安、心配、疑い、祈り、信仰、許しあうこと、愛し合うこと、等々、小松兄がすべてを神に委ねきった平安な静かな姿にキリストを見ているからでしょう、悲しみを持ちながらもそれを越え、共に神に生き生かされている時でもありました。部屋全体が神の御臨在に満ち、まるで結婚式のような明るさと自由を感じ、ここにおられる全員が心を開いているのが分かります。



小松兄がゆかり姉に連れられて私の所へ来られたのは、昨年の今頃だったでしょうか。信仰を求めて来たのではなく病気で困っていたからです。「あと数ヶ月の命」と言うことも本人は知らず、手の痛い事の方を気にしていました。見ると右の掌がグローブのように大きく赤茶色に腫れ上がり、痛くて痺れるとのこと。すぐに癒やしの祈りをし、翌週に会うことにしました。翌週になってお会いしますと手は完全に普通になっていました。その後検査入院をした結果、ガンも消えました、食欲もありますと元気に言っていました。実に純粋な人と言う事です。以来安心したのか教会に姿を見せません。年が明けてから来られたときは再発とのこと。やっと真剣に求めだしバプテスマを受けたのです。彼が安定して霊的成長が始まりました。



バプテスマはイエスの十字架の死と復活を現します。普通の人は誰も復活など信じません。しかし敢えて神は、これを信ずる者に救いの命を与えるのです。不思議ですね!

























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by oume-akebono | 2018-04-29 23:50 | 週報メッセージ

(詩篇 4篇6節)         大谷唯信牧師



「主よ、どうか、み顔の光をわたし達の上に照らして下さい」



今年度を私達教会の霊的成長の幕開けといたしましょう。



私達の教会は感謝な事に霊的信仰の核なるものが育って来ました。一人ひとりが霊的信仰に目覚め深められ、教会全体として霊的いのちの核の存在が見えて来ています。石地やいばらの生えた荒れた地ではなく霊に満ちた豊かな土壌になって来ています。魂の救いは霊的信仰の中で起こります。「神は霊であるからあなたがたも霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)は基本です。すぐれた知識も感動的な言葉も又御言葉ですら肉の次元で語られ聞かれる事があり得るのです。否、その方が多いかも知れません。私達も常に注意が必要です。



パウロも語っています。「私達にも福音が伝えられている。しかし、その聞いた御言葉は彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに信仰によって結びつけられなかったからである」(ヘブル4:6)と。「文字は人を殺し、霊は人を生かす。(IIコリ3:6) 又「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(ロマ8:6)いずれも霊と肉の問題です。両者は似て非なるもの、判別しにくいのです。サタンの巧妙さを見ます



ですから、パウロは「どうか、私達の栄光の父が知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように」(エペソ1:17)と祈っています。福音の種は私達の心が豊かな霊的な土壌になるほどに応じて100倍、60倍、30倍となるとの神の約束です。



 まず主のみ顔の光を求め全身に主の光を浴びようではありませんか。太陽は朝ごとにのぼっています。曇りでも雨でもです。神の光も同様で困難や死の谷にあっても絶えず私達の上にあります。ダビデは「み顔をしもべの上に輝かせいつくしみをもってわたしをお救い下さい」(31:16)と祈りました。主の光は全身を照らし暖かさを与えるでしょう。それが主の御臨在です。その御臨在を味わうのが霊的信仰の一歩。「主は我が光、我が救いです。」

























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by oume-akebono | 2018-04-22 23:44 | 週報メッセージ

ペテロの第一の手紙 (3章8~9節)      大谷唯信牧師



「・・・あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛を持ち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」



新年度を迎え、皆様も新たな課題、目標に心を向けておられる事と思います。わたし達の青梅あけぼのキリスト教会も、新年度の総会を前にして、一年の感謝と共に新たな祈りと信仰に立って歩んでおります。教会はここ数年、目覚ましい成長の兆しが見えるようになって参りました。これは皆様の何年にも亘る祈りと働きに、主が応え祝福して下さった恵みです。



教会は今、明るく元気で、とても活気に満ちています。問題がないわけではありません。しかし、一人ひとりがそれぞれの状況の中で、互いに仕え合う姿は、ごく自然で素晴らしく思います。昨年は、「日常を霊的生活に」をテーマとしての一年でしたが、日常の普段の生活で一人ひとりが信仰によって、地に足をつけ、自分自身の信仰生活、そして家族とのかかわり、教会とのかかわり、職場、また世の人々に対する思いを祈り合う事を課題として、ゆっくりですが取り組んで参りました。



今は、教会の核となるものが育って来ています。一人ひとりが成長しますと教会が成長して、教会が成長しますと、一人ひとりが成長します。成長するとは、霊的に深められ、教会全体に「御霊の実」としての、いのちが満たされてくることです。



昨年度は、受浸者が11名、その前の年が9名、その前の年も9名、この3年間で29名の方が受浸されています。これは教会全体が御霊によって成長している証拠でありましょう。上の御言葉は弟子のペテロの言葉です。あの弱かったペテロや弟子たちが強くされたのは、何だったのでしょう。今年度は、「信仰による霊的成長の幕明け」として初代教会に力を与えた「根拠」を求め、深めて参りましょう。























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by oume-akebono | 2018-04-15 23:41 | 週報メッセージ

(第Ⅰコリント 1:18)      大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



十字架の言とは十字架の死と復活のイエスです。この死と復活が驚くべき力の根源です。ゴルゴダの十字架のまわりには祭司、律法学者をはじめ多くの人々が見ていました。全人類のための一度だけの歴史的出来事が起きていたのですが彼らにとっては全く無意味な馬鹿馬鹿しい出来事でした。パウロもそのように受け取っていた一人だったのです。彼は自ら述べています。「わたしはヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」と断言する程のしたたかな自信家でした。



しかしイエスの愛の光に包まれて自分と正直に向き合った時「わたしは自分の欲する事は行なわず、かえって自分の憎む事をしている。わたしの欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がない。わたしは欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。ならば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪である」と罪にとりこにされている自分に絶望したのです。



これは現代人も同じで、ここまで正直に自分と向き合い現実を絶望するまで取り組むとは実に勇気のある人です。人間共通の罪の原点に逃げずに取り組んでいるのですから。「わたしは何と言うみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから救ってくれるのだろうか」と主を信じて救われたのです。その瞬間、「神は感謝すべきかな」と讃美に変ったのです。彼は十字架を教理として、自分を生かすために信じたのではありません。罪の自分に絶望しキリストの十字架の死の中に自分を投げ出したのです。イエスの十字架の叫びの中に身を投じたのです。キリストと共に死んだ。そうしたらキリストと共に生きていた。「死は勝利に吞まれてしまった」の信仰宣言に至ったのです。



























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by oume-akebono | 2018-04-08 15:27 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 6章33節)      大谷唯信牧師



「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」



 先日、久しぶりの方からお電話をいただいた。「今、どこからですか?」「鹿児島です」。幼稚園教育のエキスパートである先生は日夜、全国で研修、講演で走りまわっておられる。「大坂です」「北海道です」と。いつ家に帰られるのかと思うほどだけに「お体にはお気をつけてください」と言う事になる。すると「実は昨年の暮れに脳梗塞をやりまして・・・」であった。「手のしびれが少し残るだけで軽く済みました。お陰でネ!」と続く「これからは食事・睡眠・適度な運動、仕事等すべてについて今の自分に何が一番大切なのかを身にしみて考え取り組んでいます」との事。「今までもわかってはいたんですけど、わかっていなかったんですねー」



 もう一般論ではない。言っている内容は当たり前の事であり誰もが知っている事だ。しかし今の彼にとっては常識論でも概念でもない。すべて自分の固有の出来事である。ここまで中々わからないのだ。今ここで生きているのは、現実の二度とない今と言う瞬間の自分固有の出来事なのに、一般常識の概念で生きていたのです。



 信仰()の領域も同じです。知識も考える事も学ぶ事も大切です。しかしそれが一般の知的概念として捕らえただけでその実体には触れていない、即ち、絵に描いた餅になっているのに気づかない。だから「文字は人を殺し」と聖書は語るのです。



 御言葉の「まず」とは常に最優先。神の国と神の義とは宇宙も自分をも越えた神としか言いようのない大いなる絶対の力と支配です。神の義とは同じく絶対の義、間違いも汚れもない完全な正しさです。求めるとは絶えずそれを信じ続ける事です。文句、不平、失望、疑う事なく求める。そうすれば得られる神の法則です。人は何故疑い争うのか。自分の知識に立とうとしているからです。人には主の復活は大きなつまずきです。敢えて神は「つまずきの石」を置かれたのでした。知識ではなく信仰に立たせるためなのです。


























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by oume-akebono | 2018-04-01 15:23 | 週報メッセージ