(マタイによる福音書 8章8節)    大谷唯信牧師



「主よ、お言葉を下さい。そうすれば 僕はなおります。」



何という確信でありましょう。今、私達にはさらにこのような信仰が必要なのではないでしょうか。彼は主のお言葉には無条件で従う。普通なら当然起きてくる疑問や理屈は、突き抜けて全く問題にせず、喜びと確信をもって「主よ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とすでに目の前に実体化しています。クリスチャンでもなくイエスの弟子でもないのに。



 一方、弟子のトマスは仲間に「今、復活のイエスに出会った」と言われると、その場にいなかった彼は声を荒げて「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘のあとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきの下にさし入れてみなければ、決して信じない」と全否定。イエスの弟子でありイエスを愛していたのにです。



 百卒長とイエスの弟子トマスとどちらがイエスを信じる信仰に立っていたのでしょう。勿論、百卒長です。イエスは「これを聞いて非常に感心され、イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と言われるほどでした。そして百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」。するとちょうどその時に、僕はいやされたと聖書は告げています。



 この両者から何が学べるでしょう。まず百卒長はローマの軍人です。この世の権力の象徴ローマ皇帝に仕える軍人でした。命令の言葉には命をかけての絶対服従がその務めです。神を知らずローマ皇帝を神として命をかけての捨て身の生き方は「自分を捨て自分の十字架を負って我に従え」と言われる信仰による服従と重なる面があります。これがイエスと結びついたとき、驚くほどの信仰の器となる可能性が見えます。一方、弟子であっても肝心な時にそこに居なかったトマスは、心はかたくなに不信仰になっていくのです。後の者が先となり、先の者が後になりました。私達は油断してはなりません。信仰の泉は普段の教会の交わりの中にあることを覚えてください。教会での交わりはイエスとの交わりそのものです。
























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by oume-akebono | 2018-03-25 17:25 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 20章29節)       大谷唯信牧師



「あなたは見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」



信仰による恵みは「見ないで信ずる者」が手にします。アダムがサタンにそそのかされて食べてはいけない「知識の実」を食べて以来、人間は自分の目で見て、手で触って確実な証拠を取ったものしか信じない習性が心深く刻まれているようです。この世の学びや人生経験、知識が増すごとに自分の考え、自分の納得できないものは受け入れにくくなるものです。



トマスは他の弟子たちから復活の主に「お目にかかった」と聞かされると「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れみなければ、決して信じない」と断言したのです。これがこの世の普通の人です。常識のある堅実な人でありましょう。パウロも自分に対して絶対的な自信と確信を持ち自分の正しさに沿って生きていました。



しかしキリストに出会って心の目が開かれたのです。自分がいかに小さく不完全な罪深いものであるかに気づかされたのです。自分を超越した神の命の領域から自分を内面的に見る目が開かれたからでした。人生のあらゆる真理が現実から見えるようになったのです。今までの自分の誇り、数々の栄光その輝かしい業績も色あせたもの、まさにゴミのように見えたのです。全てを超越する真実のいのちを得たからでした。



どういう事でしょうか。パウロは言います。「わたしは信仰によって義とされキリストによって、神に対して平和を得ている」(ロマ5:1)「神との平和」です。現代人にはこれが無いのです。彼はどんな逆境の中でも「希望を持って喜んでいる。患難をも喜んでいる。なぜなら患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み、それは失望に終わる事がないからだ」とすべてを感謝のできる人になりました。「神との平和」の中に生きたからでした。その秘訣は、まず神にあなたの心を開く事にあります。全開にして下さい。意識すれば誰にでも出来ます。日々の出発点といたしましょう。























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by oume-akebono | 2018-03-18 17:19 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10~11節)  大谷唯信牧師



「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」



 私たちの教会が霊の命に目覚め、さらなる恵みを受けてくると、サタンは巧妙に働きかけ、主の霊から引き離し「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)によってもっともらしい理由の元に互いに争いを起こさせ、ねたみや党派心を引き起こし分裂させようとします。さらに霊的な事柄に於いても競争させ比べ、奉仕や献げ物をするその中にも肉の思いを秘かに起こさせてきます。また、教会一致、福音宣教を願うその中にも肉の思いを秘かに起こさせようともします。何と多くの教会や信者がその手に乗せられたことか。サタンは決して姿を現しません。自分の存在を認めさせないようにします。彼にとっては、その方が働きやすいからです。そしてまた、神をも信じないように働きかけます。互いに相手の間違いを原因として争わせるためです。今や世界中がこの手に踊らされ、しかも自らは賢く正しいと思わせるのです。



 私達も気を付けましょう。「もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべきこういとがある。」(ヤコブ3:14-16)のです。



 あらゆる争いの背後にはサタンがいることを覚えましょう。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)とあります。



 サタンは教会の群れからも離させようとします。群れから離れればサタンは簡単に信仰をも失わせ自分の都合のよい信仰に誘い込みます。礼拝、祈りを奪い教会から離れさせます。油断することなく、教会にしっかりつながり、神の約束を信じ、感謝しつつ信仰の祈りを捧げて参りましょう。




























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by oume-akebono | 2018-03-11 18:49

(ヨハネの第一の手紙 4章15節)   大谷唯信牧師



「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。」



 神は人をご自身に似せて、霊的な存在として造られました。イエスはぶどうの木とその枝に例えて「わたしにつながっているなら、豊かに実を結ぶ」と語られました。それは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という御霊の実が豊かに実るとの神の約束です。これはぶどうの木から流れてくる命ですから、自分の努力ではなく上からの賜物です。



 しかし神を信じない人は、自分の肉(エゴ)の働きで頑張るしかありません。その肉の働きの根は「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい」(ガラテヤ人への手紙 520)であり、本質は罪であるとしています。この世のほとんどの人が、この肉の働きで困っています。「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」(ガラテヤ人への手紙515)と聖書は語っています。肉は闇であり滅びです。



 私たちは神の導きによりイエスの福音に触れ救われました。教会も私たちも共に主の交わりの中で育てられ、日々感謝に溢れた生活をしています。これからは一人ひとりが御言葉からメッセージを聞き取り、主にお応えしていく事が大切なのではないでしょうか。次の御言葉からどのようなメッセージを受け取りますか。「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである」(ガラテヤ人への手紙513-14



 先週学んだように、愛するとは、相手にあなたの心を開く事です。第一は神に心を開き、全開する。意識し、常に吟味しつつ全開するのです。すると他者に対しても、苦手と思える人にも心が開いて来るでしょう。さらに、これらいっさいのものの上に、愛を加える(コロサイ人への手紙314)のです。全員で取り組みましょう。教会に愛が満ち満ちてくると、どのような教会になるのでしょう。想像してみて下さい。それは、既に始まっています。


































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by oume-akebono | 2018-03-04 17:43 | 週報メッセージ