(マタイによる福音書 22章35~40節)   大谷唯信牧師



「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な第一のいましめである。第二も同様である。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」



愛するとは心を開くこと。「まず“神”に心を開きない。全開です」これが全ての基本。



律法学者がイエスを試そう思って「律法の中では何が一番大切なのですか」と質問しました。実に良い質問をしてくれました。おかげで膨大な律法を端的に普遍的な本質を二点に絞り、しかも具体的な取り組みの行動、及びどこまでの深さ、高さにまで目指すのか目標をも示されました。学者達はその真意を汲み取る事もせず、「では、あなたの隣り人とは誰ですか」等と最もらしい問いをしてきたのです。



隣り人を本当に愛したと思って問うのは良いことでしょう。彼らは「自分の立場を弁護しようと思って」であり「イエスを試そうと思って」でありました。イエスは愛し合う基本を教えておられたのですが、その学者達の心には愛の心になろうとしている動きが見えるでしょうか。その真逆ですね。正に議論のための議論、真実の実体を求めるのではなく自分の主張、弁護の議論です。



しかしイエスはこの議論に巻き込まれませんでした。「よきサマリヤ人」の例話を出し、「強盗に襲われた人の隣り人になったのは誰と思うか」と逆に質問したのです。そんな事は当然わかっている事ですから、彼らは勿論正解を出しました。ところがその時すぐにイエスは言われたのです「あなたも行って同じようにしなさい」言われた彼らはどうしたでしょう。おそらく不愉快に沈黙するしかなかったでしょう。もうやる事がないのです。議論以外にはやる事がないのです。彼らの姿に私達現代教会の姿がそのまま見えて来ないでしょうか。イエスは社会平和や教会論、宣教論を論じているのではありません。



「まず、神に心を開け、

全開だ!

 これが全ての基本」



これは、新しい人生、成長する教会への入口です。

































[PR]
by oume-akebono | 2018-02-25 16:35

(テモテへの第二の手紙 3章16~17節)     大谷唯信牧師



「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」



聖書は人の創作によってではなく、神の選ばれた預言者、王、政治家、学者、農夫、羊飼い等の約40人の者によって前1400年~後200年頃の期間にそれぞれの地域と場所とその状況下で神の霊に導かれ書かれたものです。旧約はイスラエルの歴史の現実の出来事を中心に、新約は神の子イエス・キリストの働きと御言葉を中心に、詩篇はキリストの十字架とよみがえりの出来事を通して与えられた全人類の救い、福音が世界中に拡がるため教会を誕生させこれに一切を託された記録、その様子が使徒行伝に聖霊降臨ペンテコステの様子にそのまま記されているわけです。上からの一方的な聖霊の注ぎによって弟子達を始め、多くの人々、又、キリストの迫害者として一番恐れられていたパウロまでが回心し伝道者の器とされ、世界の福音の拡がる基礎となる宣教と教会の設立を各地に行ったのでした。これらすべて神の聖霊による導きであった事を聖書は伝えています


今日、私達が現在、青梅あけぼのキリスト教会に導かれましたのも、初代教会と同じく上からの神の導きでなくて何でありましょう。



もしこの世に聖書がなかったならばどのようにして神を知ったでしょうか。他の諸宗教のように人間の知恵、知識で想像した神を祀り上げ、自らを教祖と自任したりの偶像礼拝になるしかなかったでしょう。聖書があるから神を知りイエスを知り、聖霊の働きと教会に出会ったのです。神は全人類を救うため、イスラエルを用い預言者を用い、今は教会を用いています。教会はキリストの体です。私達はキリストに選ばれたキリストの体の肢体です。共にキリストの命に授かっているのです。何のためでしょうか。今度は私達がキリストの証人として世に立つためです。





































[PR]
by oume-akebono | 2018-02-18 17:29 | 週報メッセージ

(使徒行伝 3章14節)        大谷唯信牧師



「神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。」



現在、私達の教会は沢山の恵みを受けております。皆様方の正直な祈りと信仰に神は応えて下さっておられます。心から感謝の祈りと讃美を捧げましょう。そういうこともあって、さらに私たちが何を求め、どのように歩んだらよいのかを知るため、祈祷会では再度、使徒行伝を読むことにしました。弟子達の、聖霊によって歩むその信仰姿勢に触れるためです。



 初代教会の弟子達とその一団は決して名のある人達ばかりではありませんでした。有能な指導力のある人達でもありませんでした。では、何故あのような目覚ましい働きと多くの実を結ぶことになったのでしょうか。当時の時代背景、その状況を見ても決して伝道に恵まれているとは思えません。それどころか最悪です。それに比べ今の私たちの時代はどうでしょう。戦前、戦中のような迫害も特高警察の厳しい取り締まりもなく、宗教も言論も保証され生活も豊かで自由です。



 しかし、何不自由のない豊かな生活になるほど、次の課題が足下にあることが分かります。イエスがラオデキヤの教会に語っている御言葉から私達にも当然起こってくる問題を明確にしました。「あなたは冷たくもなく、熱くもない。なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」(黙示録315-17)と言われたのです。



 「人の四つの領域」で見るならば、④の霊以外の三つは肉の働き(ガラテヤ519-21)の領域です。人は何故争うのでしょう。肉の働きになってしまうのです。御言葉は「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ロ-86)と語っています。

 実は②と④は本来、神の愛に満たされた心で一つのものでした。罪の中に霊が閉じ込められているのです。私たちが生きるのに一番大切なことは、聖霊の導きを信じ④に聖霊を受け入れ、聖霊によって祈り、聖霊によって御言葉を味わい従うのです。そうすれば三つの領域の霊的成長が始まるのです。




≪≪ 私たちの存在を支える人の4つの領域  ≫≫


① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  






























[PR]
by oume-akebono | 2018-02-11 19:22 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章13節)        大谷唯信牧師



「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」



信仰生活で日々大切なことは「肉の働き」への対処の仕方です。主は聖霊を助け主として与え、導いて下さいます。「それが来たら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」と言われました。開くとは「自らを責めさせる」の意味です。そうなればこの世はリバイバルでしょう。しかし現実としては、その前に自分の肉の働きに目が開かれて心が痛み、救われたはずなのに以前よりもっとひどく肉の働きの罪が自分の中にまだまだあることを発見し、何とかそれを取り除こうと戦い、敗北し、惨めな思いを経験する。そんなことはないでしょうか。多くのクリスチャンが無残にも敗れ、敗北感を心に秘め、確信を失っているのを見ます。



 「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)



 それなのに、なっていない自分を見て焦るのです。人の四つの領域を思い出して下さい(1月14日、21日参照)。①②③はすべて肉なのです。④の魂()の領域に、信仰によってキリストが新しい命となって入って下さいました。国籍は天に移され、神の子とされたのです。これは自分の存在の土台ですから、自分の存在そのものが天に移され、新しくされたのです。基準が心ではなく霊に移りましたから、心の肉が明確に見えるのです。



 肉の働きが見えるのは、霊の命に立っているからです。聖書中の人物でアブラハムからキリストの弟子達まで、肉の働きのなかった者はほとんどいません。霊が成長し深められるほど、肉の働きがさらに分かります。肉の働きがなくなったらどうなりますか。すべてに満足し信仰が駄目になり、黙示録3:17のようになります。肉の働きを嘆いて自分で戦うとこれも肉の働きとなります。Ⅰペテロ2:1のように十字架のもとに捨てる信仰(意識)をもつのです。罪の発見は成長の課題であり、恵みです。喜んで感謝して捨てる。これがディボ―ションとなります。












































[PR]
by oume-akebono | 2018-02-04 19:14 | 週報メッセージ