(エペソ人への手紙 4章1~3節)   大谷唯信牧師



「あなたがその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」



今年もいよいよ最後の主日を迎えました。今日は普段とは違い、時の流れを一段と厳粛な想いで過ごす時ともなりましょう。世界中が泣いても笑っても、時は確実に刻まれ過ぎ去っていきます。物理的、無目的な時の流れ、移り行くその中に、創造主なる神の愛――イエス・キリストの十字架の愛が今も自分に向けられていることを認めるなら、人生は一変します。



聖書は語っています。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と。「生まるるに時があり、死ぬるに時があり、…愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」と語り、結局、「働く者はその労する事により、何の益を得るか」と問いかけています。彼は誰よりも大いなる者となり大きな事業、多くの財産、あらゆる快楽を得たが、皆、空であり風を捕えるようなものと告白しています。しかし神を認め、信じ、神と共に歩む時、すべてのものが新しくされ、「神のなされることは皆、その時にかなって美しい」と告白するまでになったのです。心の霊的な目が開かれると物事を自分の側からだけで見るのではなく、神の側から見て自分の立ち位置が広く客観的にも見えるようになってきます。しかも「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見極めることはできない」(伝道の書3:1-11)と語っています。



神の世界を私達は見極めることはできません。しかし、信じることは幼な子でもできます。「神は霊であるからあなたがたも霊とまこととをもって礼拝しなさい」とイエスは言われました。心で信ぜよということです。



この時の流れの中にも、私達の生活の中にも主はおられ、内なる声となって導いておられます。「今の時」を主と共に、です。






























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by oume-akebono | 2017-12-31 23:22

(ヨハネの第一の手紙 4章8~9節) 大谷唯信牧師



「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」



今年もクリスマスがやって来ました。皆様と共にイェス様の御降誕を祝う礼拝ができます事は何よりの喜びです。幼稚園では毎年恒例のクリスマス・ページェントが行われ、こども達の成長に感動いたしました。



クリスマスはキリストの降誕を祝う日なのですが今では街々がクリスマスツリー、夜は色とりどりのLED電球が突然輝き、クリスマスソング、讃美歌の響き、市民もサンタクロース、プレゼント等々で思いは色々あるとしても12月の風物詩となって生活の中に溶け込んで来ているのではないでしょうか。外国では激しい戦場も一時休戦し静けさに満ちた星空の下、遠くから「きよしこの夜」の合唱が聞こえてきたと言う話も聞いています。兵士は何を考えたでしょうか。「人は何故殺し合うのだろう?」と考えたのかも知れません。150年前のアメリカ南北戦争の時の話です。



キリストが生まれるとの預言はキリストが生まれる750年も前ですが同じような戦禍でした。聖書に示されています。「すべての戦場で、歩兵のはいた靴と、血にまみれた衣とは、火の燃え草となって焼かれる。ひとりのみどり子がわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(イザヤ9:5-6)



神は私達を神御自身の絶対愛につなげるためにひとり子イェスを平和の君として与えて下さったのです。



人は平和をとなえるだけで造れません。歴史を見ても現在の世界を見てもわかります。エゴから抜け出せないからです。神の愛につながるならば出来ます。

これがクリスマスです。本当のクリスマスを求めましょう。「愛は寛容であり情け深い。ねたまない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。」(Iコリ13:4-8)


























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by oume-akebono | 2017-12-24 18:19 | 週報メッセージ

(ヘブル人への手紙 4章2節)    大谷唯信牧師



「彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言葉は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」



聖書は神の啓示によって書かれました。人間の知恵によってではなく神からの聖霊の導きによって書かれたのです(Ⅱテモテ316)。御言葉は私たちを罪から救い、滅びについて、又、生きる目的、意味、在り方等に目を開いて下さいます。



しかもそれは単なる空論の教えではなく、具体的にイスラエルを選び、私達の生活、歴史の現実に中に入り込み、救いとその道を与えて下さるのです。

しかし、イスラエルの人々にとっては「無益」であったと述べているのです。何故でしょう。「それは聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」と言うわけです。



神の命を受け取るのは「信仰」であって、知識でも感情でもないのです。「神は霊であるから礼拝する者も霊とまことをもって礼拝せよ」と主は言われました。どう言うことでしょう。聖書の人間理解で整理してみましょう。四角を四等分した田の字で四つの領域を見ます。左上を頭(知性・知識)、右上を心(感情)、左下を身体(健康)です。普通この三つの領域で人は生きていますね。しかし、もう一つの領域が残っています。右下です。それはスピリチュアルな魂の領域で、他の三つの領域を超えている存在であり、他を統括する働きをしています。「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道の書311)との御言葉がありますが、聖書は正にこの領域、永遠の神に直結している霊の領域の出来事をリアルに示しているのです。



ここにキリストをお迎えし共に生きることが信仰生活です。ここに命が入ると、その上にある心が生き生きとし頭も体も元気になります。聖霊は神の約束ですから、私達はこれを自分の信仰告白として受け入れ祈り宣言していく時、神の御臨在の中を歩む事になるのです。「十字架の言が神の力となる」が実感となるでしょう。
































  


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by oume-akebono | 2017-12-17 16:01 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 37章37~38節)    大谷唯信牧師



「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」



イエスを信じる者には誰でも聖霊が与えられます。これはイエス様の十字架以前からの約束でした。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」(ヨハネ14:16



ところが「自分には聖霊が来られているかどうかわからない」と悩んでいる方がおられると思います。主は言われました。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受ける事ができない」と。しかし「あなた方はそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたの内にいるからである」と言われています。しかも「私はあなたがたを捨てて、孤児とはしない」とまで約束しておられるのです。



このところ、わたしは連盟総会や東京連合の集い等に参加し、諸教会やその方々にお会いするのですが一つ大きな心配を感じています。それは「この方々には牧師も含め本当に生ける主と出会っているのかしら?」という疑問です。確かに御言葉を語り、祈ってもいます。でも生きた信仰が感じられない方がふえているように思えることです。「富める青年信者」であり「ニコデモ信者」を見るのです。即ち、永遠の命と言う深い問題を主に求めながら、主の答えに対して「そんな事は小さい時から知って守っていますよ。他に何かないですか?」と知っているがために何も聞かず、深めることもしない青年、又、パリサイ人、サンヘドリンの議員でもあったユダヤ人の宗教指導者ニコデモは、挨拶の一言だけで「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」と正に全面否定されてしまったのです。ところで私達はどうでしょうか。信仰に立つのです。火の消えたストーブに火と書いた紙を貼りつけてあたっていたり、火が消えかかっているのに放置している事はないでしょうか。見えてるもの影には見えないがそこに必ず求めるべきビジョンがあるのですが。






































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by oume-akebono | 2017-12-03 17:55 | 週報メッセージ