(ローマ人への手紙 8章12節)      大谷唯信牧師



「わたし達は、果たすべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を負っているのではない」



 私達はクリスチャンになってもその信仰生活を肉の力で押し進めている事が多いのではなかろうか。信仰は霊的な出来事である。それなのに肉の力で維持するとなるとどうであろう。自分の調子の良い時、気分が乗った時には快調でどんな奉仕でも生き生きと楽しく出来る。労する事そのものが楽しく感謝である。自分が肉の力でやっている等とは到底思えない。しかし自分の限度を超えて来ると肉の部分が不満、つぶやきの思いが出て来るのだ。その奉仕、働きが、又、日常生活等もいつの間にか肉の働きに変っていってしまう。熱心であっても真面目であっても同じである。肉とは自己中心の自我の心である。油断するとクリスチャンのベテランの方でもなるから気をつけねばならない。



 パウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たす事はない」(ガラ5:16)と述べた。しかしそのような思いで取り組んでも、思うようにはいかないと秘かに悩んでいる方もおられると思う。



 どうすればよいのだろう。

一つ言える事は基本的な事であるが、「イェスの名」によって取り組む事である。祈りも奉仕も新ためて意識して「イェスの名」によってするのだ。イェスの名によってしなければすべては無効なのである。



 「わたしの名によって願う事は何でもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。(ヨハネ14:13)


 「この人による以外に救いはない。私達を救いうる名はこれを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」(使徒4:12)


 「信じない者はすでに裁かれている。神のひとり子の名を信じないからである」(ヨハネ3:18)。神の御子の名はイェスであり本来父の名であった。

その名を御子に与え権威を授けられたのである。(ヨハネ17:11-12)。故にすべての事を「イェスの名によって」取り組むべきなのである。





















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by oume-akebono | 2017-06-25 15:45 | 週報メッセージ

(創世記 32章24節)      大谷唯信牧師



「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。」



 日々、聖霊の導きの中で歩んでいる事を認めよう。聖霊なしの信仰は頭による知識と理解だけに頼り力を失う。そうなると聖霊も祈りも初めの感動も失せ、信仰も無味乾燥となり信仰生活が重荷とさえ思えるようになって来る。孤独で暗く無気力になったり批判的になったりしてくるものだ。しかしこれは霊的に次の成長段階に行くべきサインでもある事を覚えよう。小さなヤドカリですら身体の成長と共に大きい殻に替えていくのである。神は時に自分を支えているあらゆるものを取りはずしていく。自分の能力、得意とする賜物、仕事、家庭、健康等々・・・、自分を支えているはずの信仰でさえも危機的状態にしてゆさぶるのである。全て何もない所まで落ち込む。



 「ヤコブはひとりあとに残った」とある。彼は賢く、神の特別な祝福を受けて何をやっても成功し莫大な財産と家庭を得て共に故郷に帰ろうとしていた。途中、兄エサウが自分を殺そうと待ち受けている事を知り、恐れ考え兄の心を和らげるため壮大な貢ぎ物を馬車で一群、二群、三群と先に行かせ、最後に妻と子どもを行かせたが、それでも恐れは消えずひとりだけヤボクの渡しに残ったのである。家族やすべての財産からも切り離され恐れと不安から自信もプライドも消え闇の中にひとりぼっちで死の恐怖の中に取り残されたのだ。



 ところがこの最悪の晩こそが、最高の栄光ある晩に変えられたのである。「ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。」とある。神との出会いが起きたのだ。彼は初めて真正面から自分の実情、苦しみ、悲しみ、弱さ、高慢、罪、自分の存在そのもので神に叫び、求め、うめき、悔い改め「主よ、わたをあわれんでください。祝福して下さるまではあなたを離しません」と訴えたのである。これが神と向き合う事であり自分と向き合う事なのだ。不平、不満、反発とあるうちはこのような真の対決は出てこない。神は聖霊によって常に対決を促している。自分を捨てる者が得るのだ。


















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by oume-akebono | 2017-06-18 17:42 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 6章4節)    大谷唯信牧師



「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」



「救われるためにはどうしたらよいのでしょうか」の問いにペテロは答えている。「悔い改めなさい。そして、罪の許しを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒行伝238)と。



ある人は「イエスを信じてさえいれば、何もバプテスマを受けなくてもよいのでは?信仰は形ではなく内面の問題であるから!」ともっともらしく言う。とんでもない間違いだ。バプテスマを受けることこそイエスの十字架の死にあずかり、主と共に葬られ、罪の断罪に死にさらにキリストのよみがえりと共にわたし達も罪の死からよみがえらされ新しい命に生かされる秘儀なのだ。



バプテスマをこの身に受けることは、「イエスの十字架の命を受け取りました」との信仰告白なのである。私たちは自分の合理的な納得のいく考え方を探すのではなく、御言葉の通り「キリストと共に死に、キリストと共によみがえる」を信仰の出来事として心で信じ、信仰の告白として大胆に口で宣言すべきである。何故ならこれが、神の示すやり方だからである。



私が心配なのは、バプテスマのみならずキリストの十字架の死も復活も、神の真剣な出来事がいつの間にか、教義、教理、神学等の学問的知識の言葉となり、生きた実体がすでに失せているのも気付かずに論議ばかりになっているのではということである。



実体とはキリストの十字架の死と復活の命である。命のない者が、というより、命が文字化し概念となり知識のみになっている者が、十字架の神学を叫んでも空しい。連盟の諸教会が疲弊しているのも、これと無関係ではあるまい。「ニコデモ信者」「富める青年信者」では駄目なのだ。命とは「日々新た」である。父と子と聖霊の名によって歩もう。主は世の終わりまで、私たちと共に日々おられるのである。

























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by oume-akebono | 2017-06-11 14:30 | 週報メッセージ

(使徒行伝 1:8)   大谷唯信牧師



「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…地の果てまでわたしの証人となるであろう」




ついに弟子達の上に聖霊がくだった。イエスの死と復活の出来事も受けきれず、迷いと失望の闇の中にあった時、聖霊がくだり状況は一変した。使徒行伝2章以降の出来事を誰が予測していたであろうか。上記の御言葉を聞いた弟子達すら誰ひとり、想像もできなかったことが起きているのである。正に創世記最初の「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と同じではないか。さらに「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)これと同じく、失望、落胆の弟子達に聖霊が注がれ「生きた教会」が誕生し、今の私達の教会があるのである。


教会のエネルギーの源泉は私達から出た努力や力ではない。上から注がれた御聖霊である。創造主なる神の人類救済の御計画は、イスラエルの歴史を通して現わされている。前745年頃、イスラエルの不信仰によっての南北の分裂、バビロニア捕囚162年間の苦しみを前にして、預言者イザヤの言葉を見てみよう。


「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心を生かす。わたしは限りなく争わない。また絶えず怒らない。霊は私から出、いのちの息はわたしがつくったからだ。」
「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。遠い者にも、近い者にも平安あれ、わたしは彼をいやそう』 」(イザヤ57:15-19)


この預言の成就が究極の神の愛、独り子イエスの贖いの十字架であり、聖霊の注ぎによる教会の誕生、そして私達への救いの招きなのである。






















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by oume-akebono | 2017-06-08 22:04 | 週報メッセージ