2016年 07月 31日 ( 1 )

(詩篇34:5)   大谷唯信牧師

「主を仰ぎ見て、光を得よ。」



 あなたの目はどこに向けられているのか。主を仰ぎ見るのだ。日々の思いわずらいにいつの間にか暗い心に取り込まれてはいないだろうか。自分の弱さや心の痛みに思わず目がいってしまい、どうしたらよいのかわからない。こういう時こそ、信仰によって祈り、受け止め、信仰の一歩を踏み出すチャンスとして求めるべきではないだろうか。


心を静め、暗い自分から目を離し何もないのだが、信仰によって御言葉に聞き主を仰ぎ見るのである。初代教会がそうであったのだ。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となるであろう」との御言葉の前に、何をどうしたらよいのかさえわからなかったであろう。イエス様が捕えられ、十字架の死、復活の出来事、天に上げられる主、次々起る受難の出来事に弟子達はすべて整理もつかず、意味も分からず、ただ迫害のただ中で恐れおののいているだけであったろうと思う。


弟子達は市内の泊まっていた屋上の間に上がった。そしてせめて彼らのできた事は「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟達と共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)とある。


今のわたし達の教会もここが大切な点ではないだろうか。聖霊がくだった時も、「五旬節の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると…」とある。


かつてイエス様は「もしあなたがたのうちふたりが、どんな願いごとについても地上で心を合わせるなら…:」「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所にはわたしもその中にいるのである」(マタイ18:19)と主の臨在の約束を語っているのである。

これは教会の原点である。個人の能力やリーダーシップでもない。教会に注がれる聖霊の力である。わたし達の教会がさらに生きた教会になるには、ここにヒントがあるのではないだろうか。みんなで考えてほしいのである。
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by oume-akebono | 2016-07-31 16:16 | 週報メッセージ