(マルコによる福音書 10章15節 )     大谷唯信牧師


「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。


イエスの最初に語った宣教は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)であった。ところが「世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)とある。確かに祭司ザカリヤもパリサイ人の指導者ニコデモも、この世は分からなかったのである。そういう現実を主は神に感謝し「あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」と語っているのである。


富める青年が主のもとを悲しみながら去った時、イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは何とむずかしいことか、それより、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と言われている。と言うことは、全く不可能と言うことではないか。弟子達は驚き「それでは、誰が救われることが出来るのだろう」とイエスに問うた。これは私達教会にとってもクリスチャンにとっても大変な事ではないだろうか。
イエスは彼を見つめて答えられた「人には出来ないが、神には出来る。神には何でも出来ないことはない」と。


即ち、「この世の知恵ある者、賢い者には隠して、幼な子にあらわして下さった。」「誰でも幼な子のようにならなければ神の国に入ることは出来ない」。しかもこれは神の御心にかなった事としているのだ。
わたし達はそろそろ気付かなければならない。神の国の出来事(教会の出来事すべて)は、難しく考えるのではなくて、幼な子のような素直で単純な信仰の出来事にした時、神御自身が聖霊の力となって可能にして下さると言うことである。自分ではなく「神成し給う」の信仰、「心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成る」(マルコ11:23)との信仰である。聖書には不可能を可能にする信仰が満ちている。今年はこの信仰に信仰をもってチャレンジしようではないか。
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by oume-akebono | 2016-01-18 14:59 | 週報メッセージ