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2015年 06月 29日 ( 1 )

(マルコによる福音書 5:35-36)      大谷唯信牧師


「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。
イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。




 娘の死を知らされた父親がいる。会堂司ヤイロであった。娘をなおして頂くためにイエスをお連れする途中の事だ。


 私達ならどうするだろう。死という動かす事の出来ない重い現実を悲しみ嘆きながらも、受け入れざるを得ないと思う。人間がどんなに願っても泣き叫んでもどうにもならない現実、現代の知恵も力も死に対しては全くの無力なのである。この世がどんな力を誇っても、独裁者であっても、死に対しては無力であろう。
この無力を当然の常識として人々は受け入れ生活している。


 しかし神はこの無力なこの世の常識に囚われている私達に、それを超えた命の世界をイエスを通して得させようとしているのだ。そのイエスは死の宣告を耳にした時どうしたのか。「イエスはその言葉を聞き流して」とある。普通なら、この言葉だけは聞き流せないはずだ。こんな深刻な、しかも病人のために行こうとしていたのに、一番肝心な事ではないのか。

 イエスは何も感じていないのだろうか。肉である私達はどんなにあがいても肉でしかない。イエスは霊の世界の方であるのだ。突然イエスは悲しみ惑う人々に向かって「恐れるな」と言われた。肉の世界に霊の世界が突入してきたのだ。「ただ信じなさい。」と。


 ただ信じるとはどういうことか。私達はすぐそう考えてしまう。ただ信じるとは「ただ信じる」ことだ。
霊の世界を受け取るには「ただ信じる」のだ。
他には何もない。何の理由も根拠もない。
「ただイエスを信じる」信仰だけである。


イエスに関する知識や神学でイエスに「押し迫る者」であっても、それがどんなに深い理解であっても、実際にはイエスに触れていないのだ。そこでイエスは会堂司の家に入る時、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて信仰の戦いに挑んだのである。
by oume-akebono | 2015-06-29 12:11 | 週報メッセージ