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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


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2月22日  聖霊の啓示を求めよ

(テモテへの第二の手紙 3:16)   大谷 唯信 牧師


「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」


聖書の特徴は神の霊感によって書かれたところにある。「霊感を受けて」とは神の息が吹き込まれてと言う事である。勿論、その時代、時代の人がギリシャ語やヘブル語で書いているのだが、そこに神の息が吹き込まれたのである。

神は人を土から創り、それに「命の息を吹き込まれると生きたものとなった(創世記2:7)」と同じである。書く人は神の霊の命を受けてその霊感によって書いたのである。

私達が信仰によって聖霊の助けを求めつつ聖書を読む時、聖霊が働いて下さると御言葉は生き生きとした命を持ち二千年前の事ではなく今の自分の出来事として自分の内側に働いて下さる。聖霊が私達の内に光を与えて下さり、パウロが見たものを見、経験するのである。これを啓示を得たと言う。単なる言葉の学びではない。ただの言葉の学びだけでは何の役にも立たない。啓示を得る必要があるのだ。

「御言葉が開けると光を放って無学な者に知恵を与える」(詩篇119:130)、昔、若い時であるが妻の膵臓炎が悪化し築地の国立がんセンターで危篤、医師より「覚悟して下さい」と宣告され、無我夢中で「イエス様、助けて下さい!」と祈り叫んだ。聖書を開くと「この病は死ぬほどのものではない。神の栄光が現れるためである」(ヨハネによる福音書11:4)が目に入り、この御言葉が生きて動き出し、わたしの内側に大きく響き、全き平安に包まれたのである。そしてその時、妻はいやされていた。私にとっても絶望の死からいのちへの復活の体験となったのである。
by oume-akebono | 2009-02-22 22:37 | 週報メッセージ