2009年 02月 08日
2月1日 神と出会う入り口
(ヘブル人への手紙12:4) 大谷 唯信 牧師
「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」
神を求め、神と出会い、神に触れるにはどうしたらよいのだろう。天を仰いで「神様!」と祈ればよいのか、聖書を読めばわかるものなのか。確かにいろいろな道筋はあると思う。しかし、自分と神との接点をしっかり押さえて求めなければ空回りになってしまう。聖書を学び、御言葉を覚えたとしても頭で理解し記憶しただけであって何の影響も得えられない。
ではその接点とはどこにあるのか。それは自分の中にある罪である。何年も前に禅僧の秋月龍珉師が「聖書には実に恐ろしい言葉があるものだ」と語られたのを思い出す。それが上の御言葉であった。「あなたは血を流すほど自分の罪と取り組んだ事があるのか」と言う事である。
人の欠点や罪はすぐに見えるのだが、自分の罪はどうだろう。自分の中に罪を感じたことのないものはいないと思う。少々の自覚ではなく血を流すほどの取り組みをしているのかなのである。パウロが模範的な形で経験している。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意思は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで欲していない悪は、これを行っている。それは、わたしの内に宿っている罪である。」(ローマ7:18-)と。
彼は罪を取り除くために戦ったがどうにもならず、「わたしは何というみじめな人間なのだろう。誰がこの死の体から救ってくれるのか」と絶望しつつ神を仰いだのである。その時に出会いが起こったのだ。自分の罪への絶望こそが神に通じる入口だったのだ。
「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」
神を求め、神と出会い、神に触れるにはどうしたらよいのだろう。天を仰いで「神様!」と祈ればよいのか、聖書を読めばわかるものなのか。確かにいろいろな道筋はあると思う。しかし、自分と神との接点をしっかり押さえて求めなければ空回りになってしまう。聖書を学び、御言葉を覚えたとしても頭で理解し記憶しただけであって何の影響も得えられない。
ではその接点とはどこにあるのか。それは自分の中にある罪である。何年も前に禅僧の秋月龍珉師が「聖書には実に恐ろしい言葉があるものだ」と語られたのを思い出す。それが上の御言葉であった。「あなたは血を流すほど自分の罪と取り組んだ事があるのか」と言う事である。
人の欠点や罪はすぐに見えるのだが、自分の罪はどうだろう。自分の中に罪を感じたことのないものはいないと思う。少々の自覚ではなく血を流すほどの取り組みをしているのかなのである。パウロが模範的な形で経験している。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意思は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで欲していない悪は、これを行っている。それは、わたしの内に宿っている罪である。」(ローマ7:18-)と。
彼は罪を取り除くために戦ったがどうにもならず、「わたしは何というみじめな人間なのだろう。誰がこの死の体から救ってくれるのか」と絶望しつつ神を仰いだのである。その時に出会いが起こったのだ。自分の罪への絶望こそが神に通じる入口だったのだ。
by oume-akebono
| 2009-02-08 23:10
| 週報メッセージ