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3月23日*イースター礼拝  十字架の勝利

(Ⅰコリント15:55)    大谷 唯信 牧師

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、お前の勝利は、どこにあるのか」

イエスは死からよみがえり、死を打ち破り私達の救い主となって下さった。
これは神の御計画通りであったのである。人々は寄ってたかってイエスをたたき、軽蔑の罵声を浴びせかけ十字架にはりつけにした。「そして十字架からおりて来い、そうしたら信じよう」(マタイ27:40)と叫ぶのである。

何とこれはイエスが公生涯に入られる時、荒野でサタンの言う、宮の頂上から「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛び降りてごらんなさい」(マタイ4:5)と言った誘惑と同じものであった。
今日に至っても多くの人々が同じ事をいい、「そうしたら信じよう」と叫ぶのである。

彼らはイエスの死の深い意味を知ろうともせず十字架抜きの美しい感動的な愛を求め、人知れず目立つ事無く個人的に愛と平安に満たされ、悩みも悲しみもなく豊かな人生となるなら信じてもよい等と言う人々である。
しかし、十字架のイエスとはイザヤが語っているいるように「彼には我々の見るべき姿はなく、威厳もなく、我々の慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ…」と、事の起こる700年も前に預言された歴史的なしかも神の出来事なのである。

何故それほどまでにして神はイエスの十字架を我々に伝えようとするのか。それはイエスの醜い十字架の姿こそ私達の罪の姿そのものとして示されたのだ。イエスの十字架の死は、実に今の「わたし」の姿なのである。それを身代わってイエスが十字架の死を受けて下さったのだ。この愛を受け取って生きよと神は私達に懇願されているのである。
by oume-akebono | 2008-03-26 16:10 | 週報メッセージ