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3月16日 十字架は我がため

(イザヤ書53:5)  大谷 唯信 牧師

「彼(キリスト)は我々のとがのために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、我々に平安を与え、その打たれた傷によって、我々はいやされたのだ。」

預言者イザヤはキリストが十字架に掛けられる700年も前にキリストが全人類の救い主として来られ私達のために苦難を受けて下さったという事を実にリアルに預言している。現代社会に至るまでの永い世界の歴史は、唯一創造主なる神が私達人間をいかに愛し救おうとされてきたのかの壮大なドラマであろう。

聖書もキリストもキリスト教をつくるために生まれたものではない。人間を罪から救い、根源的な生き方、神のいのちを与えるためであり、神からの一方的な啓示として与えられたものである。人間の一番の問題は自己を基準とした所謂自己中心の生き方をしているため、自分の罪が死に価するほどひどいものとは思っていない事である。
それぞれに自分なりに正しいと思っている。

しかし聖書は次のように述べている。「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。」(ローマ3:10)と。
自覚症状のない事が罪の特徴なのだ。あなたはどうだろうか。キリストの十字架の姿を見よ。
イザヤは語る。「彼には我々の見るべき姿はなく、威厳もなく、我々の慕うべき美しさもない。
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。」これこそ神の目から見た私の姿なのである。キリストが代わって死んで下さった。「それは御子を信ずる者が永遠のいのちを得るためである。」
by oume-akebono | 2008-03-17 18:05 | 週報メッセージ