2007年 11月 24日
2007年11月25日 「礼拝」
使徒行伝 4章13節 大谷 唯信 牧師
「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」
神は生命の根源である霊の御方であるから礼拝する私達も霊と真実をもって礼拝せよと主は語られる。習慣や惰性ではなく、今、はじめての新鮮さで自分の真実を神に向け、心からの感謝を捧げていく。又、神の御心を求める謙虚な祈りを持って向かう事が大切なのだ。そうすれば御聖霊がその思いを真実なものとして整えて下さる。
礼拝は単に説教によって恵まれたから感激するというものではない。礼拝のすべて(讃美、祈り、捧げ物…)を通して、肉の思いをさぐられ、悔い改めを促され、新たな献身の決意に導かれる事である。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である。」(ローマ人への手紙8:5-6)これは自分の空しさを知り、主の十字架を仰ぎ望む時、注がれる神の恵みを語っている。霊は理屈を超えたいのちの世界のことであるから信じる信仰によって開かれてくる。
今や、諸教会の問題は霊の事を肉で理解し、肉で霊の事を語っていることである。イエスの十字架の福音は霊の出来事である。これを教理として知的に納得し信ずる。つまり自分の理解度が中心になっている信仰である。そのためか、理解できない出来事にぶつかるとすぐつまずいたり機嫌を損ねたり教会に来なくなってしまったりする場合もある。しかし、本来、信仰は自分の理解度を超えて神を信ずることであるからつまずくことはない。たとえあったとしても、霊的に切り変えるなら飛躍的に成長するチャンスになるからこれもまた感謝な出来事と言えよう。
「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」
神は生命の根源である霊の御方であるから礼拝する私達も霊と真実をもって礼拝せよと主は語られる。習慣や惰性ではなく、今、はじめての新鮮さで自分の真実を神に向け、心からの感謝を捧げていく。又、神の御心を求める謙虚な祈りを持って向かう事が大切なのだ。そうすれば御聖霊がその思いを真実なものとして整えて下さる。
礼拝は単に説教によって恵まれたから感激するというものではない。礼拝のすべて(讃美、祈り、捧げ物…)を通して、肉の思いをさぐられ、悔い改めを促され、新たな献身の決意に導かれる事である。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である。」(ローマ人への手紙8:5-6)これは自分の空しさを知り、主の十字架を仰ぎ望む時、注がれる神の恵みを語っている。霊は理屈を超えたいのちの世界のことであるから信じる信仰によって開かれてくる。
今や、諸教会の問題は霊の事を肉で理解し、肉で霊の事を語っていることである。イエスの十字架の福音は霊の出来事である。これを教理として知的に納得し信ずる。つまり自分の理解度が中心になっている信仰である。そのためか、理解できない出来事にぶつかるとすぐつまずいたり機嫌を損ねたり教会に来なくなってしまったりする場合もある。しかし、本来、信仰は自分の理解度を超えて神を信ずることであるからつまずくことはない。たとえあったとしても、霊的に切り変えるなら飛躍的に成長するチャンスになるからこれもまた感謝な出来事と言えよう。
by oume-akebono
| 2007-11-24 23:31
| 週報メッセージ