2月28日 救われるためには?
(ローマ人への手紙 6章16節) 大谷唯信牧師
「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」
すべての人は何かに支配されその奴隷なのであると聖書は語る。しかし多くの人が、自分は好きなときに好きな事ができる。全て自由そのものであって決して奴隷などではないと思っているだろう。あなたはどうだろうか。
パウロはそれこそ自分の欲望の奴隷ではないかと気づくのである。即ち、自分には善をしようとする意志はあるのだが、それをする力がない。即ち、欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。(ロマ7:18~20)これでは自由ではない。これに打ち勝とうとしてどんなに頑張っても結局は悪に支配されてしまう自分がいると嘆いたのである。「わたしは何と言うみじめな人間なのか。この死のからだから、だれがわたしを救ってくれるのだろうか」(ロマ7:24)と。
彼は自分の肉に絶望し肉に頼る事をやめ、肉に見切りをつけざるを得ない状況で、ただイエスの十字架を仰ぎ見、イエスを信じたのであった。その瞬間、肉が死に霊に生きる出来事が起り、いのちと平安に変えられている自分を発見した。これは正に奇跡である。神の出来事である。しかも、この救いが現在の私達にも同じように与えられているのであるから驚くのだ。
その条件は自分に全く絶望する事。次にイエスを信じる事なのである。イエスを信じると何が起るのか。霊なる神の命が注ぎ込まれ、目が開かれ神の救いや自分の人生に確信が与えられて来るのである。しかし、信じなければ何も始まらない事も覚えておこう。