12月22日 人間の賢さの限界
(マタイによる福音書 3章4節) 大谷唯信牧師
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのである」
この世の教育はいかに優れたものであっても人を造らず人を生かさない。全く死の教育でしかない事を世は気づくべきであろう。イエスは言われた。「人を生かすのは霊であって肉は何の役にもたたない。」(ヨハネ6:63)と。この世の教育は全て肉の領域であって人を生かす肝心な霊なる命とは似て非なるもの、全く関係ないものになっている。
ユダヤ人は神から与えられた律法ですら自らの行いの中におとしめ、単なる規範、規律、戒律如きの無力な文字としてしまい、もはや神不在の律法であり「霊によらず文字だけの外見上のユダヤ人」(ロマ2:28)になってしまった。彼らが誇りとしていた父祖アブラハムは信仰の人であったのにである。「彼は死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた。彼は望み得ないのになおも望みつつ信じた」「サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった」「神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ栄光を神に帰し、神の約束を確信した」(ロマ4:17‐21)。
しかしユダヤ人は律法の行いを義とし自らを誇っていたのである。その点、知識や科学を頼みとして自らの力を誇りとする現代人も同じ事をしているのではないだろうか。一見豊かに見えた世界経済も一つのつまずきで世界中がガタガタになっているではないか。日本に於ける政治、経済、教育、いずれも未来が見えず行き先もわからずその貧困さを露呈している。結局バベルの塔しか築けない私達人類は今こそ「人はパンのみではなく」真の食物である霊の糧、即ちキリストの命を得る必要に気づかねばならないのではないか。