7月28日 なくてはならないもの
(ルカによる福音書 10章42節) 大谷唯信牧師
「しかし,無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
私達は教会にあっても家庭にあっても、また職場や自分個人にあってもどうであろうか。今一つ何か足りない…かと言って不自由しているわけではないが何か一つ、自分の心に、そして互いの関係においてもっと満たされたもの、成長に向けての確信というものがあれば…否、あるべきではないか、等の思いを持ってはいないだろうか。
もし持っているとすればそれにすぐに取り組むべきである。ほとんどの人が夫や妻、自分や教会での自分また隣人に対して何となく感じていながら、目先のしなければならない日常の仕事、奉仕に追われ、その感じている「何となくのこと」は後まわしになるのである。取り組もうにも「何となくのこと」であるから、どう切り出し、どう取り組んでよいかも漠然としていてわからない。時に話しかけたり、プレゼントをあげたり、何か出来ることをしてあげようとしたり…、しかし手応えもその場限りで空しい、不安が続く。
心の問題である。人間は物質的、肉的存在であると同時に、もっと深い霊的存在なのだ。どんなに物質的、肉的に満たされても霊性が満たされなければ結局は空しいのである。何不自由ない恵まれた家庭、職場にあってもこの空しさをかかえている人は多い。これ自体は決して悪いことではない、良いことなのだ。
しかし何で満たすかが問題であろう。わたしの体や心がわたしなのではない。わたしという霊である。体や心はそれを入れる器なのだ。「神は霊であるから礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべき」とあるが、この礼拝こそが霊の充電となり、上の御言葉が教会の中で実現してくるのである。「まず神の国と神の義とを求めよ」も同じ意味である。そうすれば必要はすべて添えて与えられる。第一のものを第一にした時、分かってくる神からの知恵である。