12月9日 すでに捕えられている
(ピリピ人への手紙 3章12節) 大谷唯信牧師
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」
心に渇きを覚え、さらにイエスの命に満たされたいと願うのは、それ自体すでにイエスに捕えられているからだとパウロは語る。しかし自分の実感としては、自分の罪深さによってイエスから遠い者と思ってしまう。そんな事はないと言われても「やっぱり救われていないのでは…」と思えてしまう。
サタンはこの時、この思いに入り込むから気を付けよう。サタンは信仰に立つのではなく、自分の実感からの感情に立たせようとする。御聖霊はさらに深く信仰に立たせようとされる時、まず「罪と義と裁きとについて目を開く」(ヨハネ16:8)のである。自分の罪や汚れが今まで以上に見えてくる。喜びや平安も消え、暗い中で自分の弱さばかり見え、何とかしたいのだがどうにもならない。
実はこの「どうにもならない」ところに主の訓練があるのだ。今までの救いについての教えは、他の人から教えられ聞いたものであろう。それは一つのきっかけであり入口なのだ。ここからが自分の本物になるための主の訓練が始まるのである。自分の感情や感覚に振り回されるのではなく、信じる信仰に立つ事を学ぶのである。自分の力で何とかするのではない。自分の罪と弱さに正直に直面し、キリストの十字架を見上げ、すべての罪と共に十字架のキリストに託するのである。
「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。即ち、私たちはその死にあずかるバプテスマによって彼と共に葬られたのである」(ロマ6:3-4)。即ち、キリストと共に死に、キリストと共によみがえる信仰に立つのである。そうすれば、あなたは自分の体験としてイエスの実体に出会う事になる。これを求めること自体、すでにイエスに捕えられているのだ。