12月2日 神の義を体感しよう
(ローマ人への手紙 3章21~22節) 大谷唯信牧師
「しかし今や、神の義が、律法とは別に、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」
私達教会がここ迄成長してきたのは神の導きであり、一人ひとりの祈りと奉仕への恵みである。しかしどうであろう。近頃、信仰生活がどこかマンネリ化している事はないだろうか。日々成長している新鮮さや今取り組んでいるものへのドキドキ感、主にあっての自分への張りのある期待感、解放感があるのだろうか。
人生全般にも言えることだが、マンネリ化は誰にでも起こり得る。信仰生活では特に起きやすい。いつの間にか状況に流され受け身になっている。取り組んでいることに慣れてしまって、可もなく不可もなく順調ではあるが何か物足りない。どうか自分でチェックして欲しい。生きているのは自分なのだから、「自分は今自分の心に納得した生き方になっているか」又、「自分はどう言う人間、また、クリスチャンになろうとしているのか」、即ち信仰の目標と課題を持つことだ。
同時に教会のメンバーなのだから「教会は今どんな状態なのか」、「自分はこの教会をどんな教会にしたいのか」「そのために、自分は何をしたら良いのか」等と自分個人の目標と教会全体の目標という二つの課題を捕らえて自分の役割を把握することは大切だ。そうすれば傍観者とはならず、すべての働きが意味ある新鮮なものになってくると思う。
ところが実際、諸教会の多くがそうなってはいない。無気力の中に漂っている感じである。何故だろうか。御言葉に帰ろう。信仰生活の基盤は神の義である。それは私達に対するキリストの十字架の血による絶対的な贖いによる赦しにある。パウロは「物わかりの悪いガラテヤ人よ、十字架につけられたキリストがあなたがたの目の前に描き出されたのに…」と嘆いている。十字架の出来事は過去ではなく「永遠の今」と言う今、現在の霊的出来事だ。あなたには、自分のために血と涙を流して叫んでいる十字架のイエスが見えるだろうか。思い描き、祈るのである。