11月25日 信仰によって義とされる
(ローマ人への手紙 3章25~26節) 大谷唯信牧師
「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。こうして神みみずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」
信仰に立つとは神の側に立つ事だ。肉から霊の領域にすでに移されている。
先日聖書の会である婦人に「あなたは神の側に立っていますか」と尋ねると少し考え遠慮がちに小さな声で「えー…、神の側に立つように努めてはいるのでですが、なかなか…です」との返事。信仰歴をお聞きすると10数年、教会でも率先して証しをし奉仕も積極的にこなして下さる中心メンバーの一人である。「あー、真面目に頑張っているのだなあ!」と受け取ったわたしは思わず「そのように感じているのですね。それはネー、わたしの問題です。わたしの牧会の仕方、御言葉の解き明かしに問題がどこかにあるのです」と新たな足もとからの宿題を与えられショックを感じての言葉であった。その婦人は「わたしの勘違いでした」と言って下さったが「あゝそうですか!」と言う訳にはいかない事で両者が取組まねばならない事と思った。
確かにわたし達日本人には謙譲の美徳と言う謙遜の常識的礼儀がある場合がある。普段手が出ないような上等な物でも「お口に合うかどうかわかりませんが…」とか「お口汚しでしょうが…」とか、又、「あなたは永年のクリスチャンだそうですね!」「いや永いのは年数ばかりで信仰はいいかげんでお恥ずかしい限りです」等々の会話は身に覚えはないだろうか。
自分に属するものや自分の事は謙遜して良いが自分に属さないものを謙遜するのは失礼な事である。信仰はどうであろうか。「信仰によって義とされる」「神の義とされるため」と言う神との関係がいつの間にか、私から見た「私と神との関係」即ち、私の信仰で得た義を私の力で支え保持しようとしてはいないだろうか。これは神の側から私達に対しての「神と私との関係」であり神からの賜物なのである。私達はただ神に感謝して受け取り確信を持って生きるべきであろう。