11月4日 教会の力の原点

(マタイによる福音書 18章20節)   大谷唯信牧師



「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。



 このイエスの言葉こそ私たち教会の力の原点である。「集まって」とは単に物理的に集まっている事ではない。一人ひとりが心を開き、互いに向き合い、互いに認め、理解し、受け容れ、尊敬し合う…ここで注意すべきは「ふたりまたは三人」とは「私たち」の事だ、という事である。私たちが主の名によって集まる所には、主御自身が御臨在下さるという約束であり、それは私たちの主体性に委ねておられる事だ。実際にこの事を信仰で明確に意識していただろうか。信仰は常に「主と共に」の意識であるからだ。



 マルチン・ブーバーは人格的出会いを「我と汝」と言い、これが究極的に深まってくると、人間を超えた神との出会いにまで通じると述べた。しかし、人間はこの人格的な出会いを失い、「我とそれ(物)」との関係になっていく、と警鐘を鳴らした。85年も前である。「我とそれ」とは人格的関係ではなく、物との関係、即ち、物は自分の目的のためにあり、自分の必要な時に必要な形であればよく、必要がなくなれば要らない、という典型的な自己中心の考えである。しかも、その関係が人間との関係でも起きてくるとの警告であった。



 ところでどうであろう。今や家庭や教育の場も、どこもかしこも人格的関係ではなく、「我と物」との関係になっているのではなかろうか。先日の新聞(朝日1026日付)で昨年度の小中高のいじめは約414千件で過去最多と文科省が発表と報じている。特に小学生の増加幅が大との事である。



 この世にある以上、教会であっても油断できない。いつの間にかこの世の流れは巻き込んでいくからである。だからイエスは、「わたしの名によって集まるなら、わたしもその中にいる」と言われた。これが大前提なのだ。イエスの名によって向き合うその中に主御自身が御臨在くださり、いかなる時も「万事を益として下さる神」として私たちを導いて下さるのである。



















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by oume-akebono | 2018-11-04 18:27 | 週報メッセージ