7月29日 信仰は大胆に
(詩篇 42篇 5節) 大谷唯信牧師
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」
人は誰で苦境に立たせられる時がある。思わぬ出来事に悲しみ、絶望にうちひしがれる時があるものだ。弟子達はイエスと共にガリラヤ湖にて船に乗り向こう岸に渡ろうとしていた。ところが急に嵐に見舞われ強風と高波にもまれ、船が沈みそうになった(マタイ4:35-41)。私達の人生に現実を語っているのである。その時イエスとは眠っておられた。弟子達は恐怖のあまりイエスのもとへ走り寄り、イエスを揺り起こし「主よ、お助け下さい。わたし達は死にそうです」と叫んだ。
主と共にいながら主への信仰は全くなかったのである。主のもとへ走り寄り主に頼ったことは良かった。しかし主の体に触れ主に寄り頼みながらも主への信仰、即ち主が助けて下さるとの信仰はなかったのである。だから泣き叫ぶ。イエスは波を静め言われた。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」見るまでは信じていなかったからである。
わたし達もこう言う事はないだろうか。求め、寄り頼んでいるのだが信仰がない。願ってはいるのだが信仰を持っていない。主と共にいながらも独りぼっちでいる。主から見放されている、主から遠くにいる、無視されていると感じてしまう。
何故そうなるのか。信仰を感情の上に乗せているからである。信仰は意志であり決断である。愛も同じである。気分やその時々の感情ではない。それは②の領域の肉に立っているのだ。信仰、希望、愛は④の領域、霊的決断である。
アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。サラの胎が不妊であるのを認めながらも信仰は弱らなかった」のである。ダビデは失意の中で「わが魂よ、なにゆえうなだれるのか」と自分に呼びかけ「神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神をほめたたえる」と祈ったことを覚えよう。
≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ ≫≫
① 頭 (知識) | ② 心 (感情)/魂(良心)
③ からだ(健康) | ④ 魂 (霊)