7月22日 キリスト不在の教会

(ルカによる福音書 24章 5~6節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」



何と象徴的な奥深い言葉であろうか。迫害下でも真剣にキリストを求めているのに、いつの間にか「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」と言われてしまう状態になっているのである。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」(ローマ人への手紙85)これは普遍的な命の原理である。即ち、霊を求め従っているつもりでも、そこに「敵意、争い、そねみ、怒り・・・」(ガラテヤ人への手紙520)等の思いが出て来るなら、実際は肉に立っているのだ。私達はこの現実を正直に直視しなければならない。



「肉に従う」のは無理からぬ事とも思う。何故ならこの世はすべて肉に支配されているからだ。私達はこの中で生まれ、この中で教育され、今に至っている。私達は肉そのものになっているのだ。肉とは自分中心であり、自分の理解、自分の考え、自分の納得、自分の好き嫌いの世界だ。正しさに於いても、温かさ美しさに於いても自分の思う通りを求める。その根拠は自分の人生経験、自分の知識等であり、結局は自分なのだ。この世はその積み重ねで成り立っている。



これは決して悪い事ではない。当然の事だろう。しかしこれで霊なるキリストを求めてゆくと、「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」となってしまう。彼らは自分なりに立って求めているのだ。「その方はここにはおられない」。何と言う事か。おられるはずのキリストがそこにおられない。キリスト不在なのである。



「よみがえられたのだ」。と聞いた時、使徒たちですら「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」とある。勿論、使徒たちはイエスを愛し信じていたであろう。しかし、「それが愚かな話のように思われて」なのだ。これこそ自分なりの愛であり、自分なりの「信じる」であったのである。



肉に従う者は肉のことを思い」となる。「霊に従う者は霊のことを思う」。切り替えるのだ。日々、自分なりを捨て砕かれて主を仰ぎ主につながる思いを持ち続けよう。これが「霊と真をもって礼拝する」ことになる。これがないと見かけは立派でも、キリスト不在の教会になってしまう。





























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by oume-akebono | 2018-07-22 17:54 | 週報メッセージ