9月9日 霊性を深めるパウロの取り組み

(コリント人への第二の手紙 4章 11節)   大谷唯信牧師



「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。すれはいえすのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」



 「強く生きる」とは多くの人が求めているものの一つであろう。しかし得てして霊的ではなく肉的な強さを求め、結果的には自分を失う事になりかねない。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。(ロマ86)



 パウロはイエスと出会い従い行く中で、次々と生きるいのちの法則を体験的に啓示を受けていくのである。「わたし達生きている者はイエスのために死に渡されている」と語る。もう自分を強くしようとはしない。否、弱い方がよい。自分は無価値な「土の器」に徹する。それは自分の生命を日々十字架に掛けて死に渡してしまう事。もはや、強いとか弱い、できる、できない、自分の都合がどうなのこうなの、信仰が弱くて…等々の次元ではない。そのままの自分をイエスと共にイエスの十字架に手渡してしまっているのである。「いつもイエスの死をこの身に負っている」の意識だ。それは「イエスのいのちがこの身に現れるため」であり、さらに「イエスのいのちが、わたし達の死ぬべき肉体に現れるため」と繰り返している。



 正にイエスの語られた「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」(マタイ1625)のイエスの「命の法則」を見るのである。



これらを実現させて下さるのは聖霊の導きにある。聖霊は十字架を通してのみ働く。肉は正しく力ある働きをしていても、やがてゴルゴダにさしかかると弱くなりついて来られなくなる。

肉の力では神の要求を満たすことはできない。弟子達も「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ2641)と言われてしまった。しかしこの弱さから、弱さに立ったところから新しい出発があるのだ。十字架の死に立っていることを新たにし、聖霊のキリストに従おうではないか。
























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by oume-akebono | 2018-09-09 13:30 | 週報メッセージ