4月1日 復活はつまずきの石

(マタイによる福音書 6章33節)      大谷唯信牧師



「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」



 先日、久しぶりの方からお電話をいただいた。「今、どこからですか?」「鹿児島です」。幼稚園教育のエキスパートである先生は日夜、全国で研修、講演で走りまわっておられる。「大坂です」「北海道です」と。いつ家に帰られるのかと思うほどだけに「お体にはお気をつけてください」と言う事になる。すると「実は昨年の暮れに脳梗塞をやりまして・・・」であった。「手のしびれが少し残るだけで軽く済みました。お陰でネ!」と続く「これからは食事・睡眠・適度な運動、仕事等すべてについて今の自分に何が一番大切なのかを身にしみて考え取り組んでいます」との事。「今までもわかってはいたんですけど、わかっていなかったんですねー」



 もう一般論ではない。言っている内容は当たり前の事であり誰もが知っている事だ。しかし今の彼にとっては常識論でも概念でもない。すべて自分の固有の出来事である。ここまで中々わからないのだ。今ここで生きているのは、現実の二度とない今と言う瞬間の自分固有の出来事なのに、一般常識の概念で生きていたのです。



 信仰()の領域も同じです。知識も考える事も学ぶ事も大切です。しかしそれが一般の知的概念として捕らえただけでその実体には触れていない、即ち、絵に描いた餅になっているのに気づかない。だから「文字は人を殺し」と聖書は語るのです。



 御言葉の「まず」とは常に最優先。神の国と神の義とは宇宙も自分をも越えた神としか言いようのない大いなる絶対の力と支配です。神の義とは同じく絶対の義、間違いも汚れもない完全な正しさです。求めるとは絶えずそれを信じ続ける事です。文句、不平、失望、疑う事なく求める。そうすれば得られる神の法則です。人は何故疑い争うのか。自分の知識に立とうとしているからです。人には主の復活は大きなつまずきです。敢えて神は「つまずきの石」を置かれたのでした。知識ではなく信仰に立たせるためなのです。


























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by oume-akebono | 2018-04-01 15:23 | 週報メッセージ