3月25日 教会での交わりを軽んじたトマス

(マタイによる福音書 8章8節)    大谷唯信牧師



「主よ、お言葉を下さい。そうすれば 僕はなおります。」



何という確信でありましょう。今、私達にはさらにこのような信仰が必要なのではないでしょうか。彼は主のお言葉には無条件で従う。普通なら当然起きてくる疑問や理屈は、突き抜けて全く問題にせず、喜びと確信をもって「主よ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とすでに目の前に実体化しています。クリスチャンでもなくイエスの弟子でもないのに。



 一方、弟子のトマスは仲間に「今、復活のイエスに出会った」と言われると、その場にいなかった彼は声を荒げて「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘のあとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきの下にさし入れてみなければ、決して信じない」と全否定。イエスの弟子でありイエスを愛していたのにです。



 百卒長とイエスの弟子トマスとどちらがイエスを信じる信仰に立っていたのでしょう。勿論、百卒長です。イエスは「これを聞いて非常に感心され、イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と言われるほどでした。そして百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」。するとちょうどその時に、僕はいやされたと聖書は告げています。



 この両者から何が学べるでしょう。まず百卒長はローマの軍人です。この世の権力の象徴ローマ皇帝に仕える軍人でした。命令の言葉には命をかけての絶対服従がその務めです。神を知らずローマ皇帝を神として命をかけての捨て身の生き方は「自分を捨て自分の十字架を負って我に従え」と言われる信仰による服従と重なる面があります。これがイエスと結びついたとき、驚くほどの信仰の器となる可能性が見えます。一方、弟子であっても肝心な時にそこに居なかったトマスは、心はかたくなに不信仰になっていくのです。後の者が先となり、先の者が後になりました。私達は油断してはなりません。信仰の泉は普段の教会の交わりの中にあることを覚えてください。教会での交わりはイエスとの交わりそのものです。
























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by oume-akebono | 2018-03-25 17:25 | 週報メッセージ