7月23日 信仰の確信に立つ
(ヘブル人への手紙 3章7-8節) 大谷唯信牧師
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」
私達の日々の信仰生活は荒野におけるイスラエルの民の歩みと、その課題は同じとも言えよう。だからこそ神は独り子イエスの十字架の死と復活によってすべての悪と死に勝利し、私達全人類の救いとなって下さった。二千年前の十字架の出来事はその場その場の出来事に留まらず神の霊的世界では驚く事にこの世の私達の過去から永遠の未来すべてを包み込み、常に「永遠の今」の出来事として今の私達に救いの道を開き、すでに完成して下さっておられるのだ。
私達の現実のこの社会には善悪こもごもいろいろあるがすべてに神からの意味があり一つ一つの日常の出来事の中に神の救いと導きが確実に示されている。それを解き明かし示しておられるのが聖書である。すべての出来事に神の意味があり神との出会いがある事がわかるのだ。
故に聖書は「今は恵みの時、救いの日である」(Ⅱコリ6:2)と語る。聖書は救いを示した神からの啓示の書だ。神はこの聖書を私達教会に与えられた。私達を神からの福音の証人にするためである。神は御自身の人への熱烈な愛を聖書に語っておられる。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)神の私達への切実な思いである。神の命がけの救いの福音を私達教会は託されたのである。「わたしがあなたがたを選んだ」と語られる。
「心をかたくなにしてはいけない」。これは私達が一番落ち入りやすい不信仰からの罪だからだ。何故すぐに不信仰になるのだろう。「信仰は望んでいる事柄を確信し・・・」(ヘブル11:1)とあるが、望んでいる願い事で終わっているからだ。望んだならそれに「確信」と言う確固とした決断でしっかり押さえ込むのだ。信仰は願いを確信で釘付けにする。確信とはもう疑わないと言う信仰宣言だ。そこに御聖霊が働き、御霊の実となってくださるのである。