4月30日 罪赦されて確信を
(ヘブル人への手紙 9章14節) 大谷唯信牧師
「永遠の聖霊によって、御自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたし達の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」
人は猿の進化したものではなく神によって創造されました。聖書には「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)「神は土のちりで人を造り、命の息(神を認識する霊)をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者(魂、心)となった」(創世記2:7)とあります。即ち、人は肉的存在のみではなく特別に神と同じく霊的存在として造られました。人の霊には神を認識する霊、神を礼拝し交わりを持つ魂、善悪を判断する良心の三つの部分が神の愛に根ざした知・情・意をもつ豊かな人格的、精神的存在として造られたのです。
しかし、サタンの巧妙な誘惑に負けこれに従い神との断絶を招き、以来、人は魂の渇ける者となったのです。人はこれを悔い改めることなく神の責任として居直り神中心の生き方から自己中心の生き方で今に至っています。当然心には自分を超えた大いなる存在を求める宗教心は残っていますが、そこに自分を入れたり、自分なりの都合のよいものを神として崇め生活しています。自分の都合で自由に生きる事こそサタンの巧妙な罠ですが人は気付きません。自己の欲望を満たすため自由奔放、勝手気儘に生きることを喜びと感ずるのがエゴの特徴です。
霊は神に対して死んだ状態ですが良心は生きています。ところが良心は裁判官のように罪定めをする機能です。真面目で純粋な人ほど良心に責められ、逃げ場がなく、その呵責に耐えかねて神経が参ってしまい心が病んでしまう人も多いようです。これこそイエスさまの十字架に委ねるのです。「わたし達はイエスの血によってはばかる事なく聖所に入る事ができる。心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、真心をもって信仰の確信に満たされつつ、み前に近づこう」(ヘブル10:22)イエス様はこのために来られました。