3月26日 御霊のとりなしに生きよう
(ローマ人への手紙 8章26節) 大谷唯信牧師
「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さる。なぜなら、わたし達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたし達のためにとりなして下さるからである」
人は本当に追いつめられ苦しくなるとうめきしか出なくなる。もう言葉にもならないのだ。祈りも信仰も、何もかも、空しく絶望の闇となる。その死と恐れの嵐に翻弄されている最中にも耳もとで「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の声と「わたしはあなたと共にいる」、極限の時に必ず聞こえて来る声である。
何も出来なくてもただ思いの中でその声に委ねてみるとよい。その思いを持つ事は死の瞬間でも出来る。自分が死んだ状態に、何が何だかわからなくてもいい、自分の存在そのものをただ上を見上げて委ねる。身を投じる感覚であろうか。勇気、悔改め、そんな格好いいものではない。惨めで見っともないままである。闇の中に身を沈めたまま動けない状態である。突然に光に変ったのだ。自分の中が泉となって湧きだし生きているものと死んでいるものとが見えるようになった不思議な感覚だ。
以来、御言葉のメッセージがそのまま本当だとわかったのである。人を生かすのは知識や物ではなく霊であって肉は何の役にも立たないのだ。キリストが注いで下さる十字架と聖霊が生かして下さるのである。人は神に造られた霊的存在だからである。人は土から生まれ土に還る。「主なる神は土のちりで人を造り命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創2:7) 神の息とは霊である。生きた者となったとは魂が派生した事である。魂とは心であり知情意を持つ人間性、人格である。この心は霊が土台となっているのでだ。人は肉的存在である以上に霊的存在と言えよう。この霊に神の霊が注がれる時、生かされるのだ。主は御霊のとりなしによって常に働きかけわたし達を生きる者にされているのである。