2016年1月10日 御霊によって歩め

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)      大谷唯信牧師


「わたしは命じる。御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」



 パウロは自分の無力さの中で御霊の助けを願いつつ十字架の主を仰いだその時目が開かれた。それが神の力となって自分に迫り、満たされ「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Iコリ1:18)との確信に至ったのである。


「十字架の言」とはわたし達を罪から救い出すための十字架の死をもって贖って下さったキリスト御自身の事であり、滅び行く者とはそれを信じる事の出来ない者の事である。それは自分の知識を優先しているのである。人はアダムが知識の実を食べて以来、今でも知識を求め続けているのだ。聖なる神の律法ですら知識として受け、取り組んでいたのである。


 パウロは語る「義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように追い求めたからである」。「わたしは、彼らが神に対して熱心である事はあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。


なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた」(ロマ9:31-10:4)。これは実に重大な言葉である。パウロの失敗体験そのものでもあったからだ。「律法の義については落ち度のない者であった」(ピリピ3:6)と断言するほど完璧であったがそれが故にイェスを迫害する者となってしまったのである。


この世の知識は肉であり真理に対しては眼をふさぐのである。富める青年のように「それらの事は小さい時から守っております」となる。実に知識は人を驕らせ盲目にする。ニコデモ、ザカリヤも同じであった。多くの人が気づいてないのだが、いくら神の言葉であっても知識の領域で受け取るならば力どころか弊害なのである。


私達は自分の無力さを認め聖霊に依り頼み祈る。「主なし給う」の信仰で歩もう。信仰は祈りと聖霊と御言葉によって生きたものになるのである。これが御霊によって歩く事であり霊と真とをもって礼拝する事になるのである。
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by oume-akebono | 2016-01-10 09:10 | 週報メッセージ