12月27日  聖霊によって日々新しい心で

(ヨハネによる福音書6:63)   大谷唯信牧師


「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である 」。


今年の最後の主日礼拝を迎えた。一年を振り返ると沢山の感謝、反省そして新年に向けての新たな思いが出てくると思う。私達は、それら全ての自分の行動を、神の栄光のため、また人の徳を高めるためと、霊的目標を定めて取り組もうではないか。自分の力で出来るかどうかではなく、信仰の出来事として、取り組むのである。


あの受胎告知を受けた時のマリヤを思い起こしていただきたい。信仰を複雑化してはならない。信仰は単純な方が良い。理屈ではなく本気でぶつかれるからである。マリヤは「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。と驚きの中にも非常に冷静に現実を直視し、事実に直面している。思いもしない事が起きた時、「ひどく胸騒ぎがして何のことであろうかと思いめぐらしていた」。むやみやたらに悲鳴をあげたり、懐疑的になったのでもない。


これはなかなか出来ない事ではなかろうか。しかも御使いによって、これは聖霊の働きであることが解き明かされた時、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と従順であった。正に信仰の原点である。それに比べ祭司ザカリヤは「どうしてそんなことが私にわかるでしょうか」と答えている。彼は自分で分かろうとしていたのだ。自分の経験と能力で分かろうとしている。これは信仰ではない。マリヤは分かろうとしたのではない。御言葉に従おうとしたのだ。


聖書は語る「義の律法を追い求めていたイスラエルは、律法に達しなかった。何故か。信仰によらないで、行いによって得られるかのように追い求めたからである」。「彼らは神の義を知らないで自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったから」とある。私達も御言葉に従う時、自分の力で行うのではない。まず信仰によってキリストに従い、「お言葉通りに」の心で立つ事である。目新しいものを求めるのではない。御言葉に向かう自分の心姿勢、信仰姿勢を新しくするのである。
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by oume-akebono | 2016-01-07 03:30 | 週報メッセージ