2016年 01月 07日
12月20日 クリスマスは聖霊の出来事
(マタイによる福音書1:20~22) 大谷唯信牧師
「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。 その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイェスと名づけなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」
マリヤの婚約者ヨセフは彼女が身ごもったとの噂をどこかで耳にしたのであろう。彼は静かな正しい人であっただけに彼女を心配し、公にする事なく離縁すべきか案じていた。その時に御使いが現われ、「心配するな」と語りかけ、これは創造主なる神の霊、聖霊の御業であることがわかったのである。
神の出来事はわたし達の理解を超えている場合が多い。ゆえに信仰によって信じ受けるしかないのだ。神の出来事はどんなに考えても答えは出ない。恐れと不安が増すだけである。わかろうとするほどわからなくなる。しかし、信仰によって信じ受け入れるならば驚くほどの道と勇気が出てくるのである。
信じるとは自分が信じれるようにわかった、理解した、納得したからではない。わからないから、理解できないから信ずるのだ。わかったら信ずる必要はないと思う。信ずるとはわからなくても、理解できなくても受け入れ信ずる、否、信ずることに自ら意思決定する事である。信ずるとは意志で決め受け入れること、それが信仰となり力が注がれるのである。
よく「信じられない」と言って自分で決定しないで信じれるのを待っている人がいるが信仰は受け身では得られない。決定して奪い取る主体的なものである。すると御言葉が生きた力となって道が見えて来るのである。「御言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」(詩編119:120)「御言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩編119:105)が自分の中に実現するのだ。マリヤも「わたしは主のはしためです。お言葉どうりにこの身になりますように」の信仰で出発したのだ。エリサベツは「主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は何と幸いでしょう」(ルカ1:45)と告白している。
クリスマスは聖霊の出来事であり信仰で受けとめる出来事である。
「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。 その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイェスと名づけなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」
マリヤの婚約者ヨセフは彼女が身ごもったとの噂をどこかで耳にしたのであろう。彼は静かな正しい人であっただけに彼女を心配し、公にする事なく離縁すべきか案じていた。その時に御使いが現われ、「心配するな」と語りかけ、これは創造主なる神の霊、聖霊の御業であることがわかったのである。
神の出来事はわたし達の理解を超えている場合が多い。ゆえに信仰によって信じ受けるしかないのだ。神の出来事はどんなに考えても答えは出ない。恐れと不安が増すだけである。わかろうとするほどわからなくなる。しかし、信仰によって信じ受け入れるならば驚くほどの道と勇気が出てくるのである。
信じるとは自分が信じれるようにわかった、理解した、納得したからではない。わからないから、理解できないから信ずるのだ。わかったら信ずる必要はないと思う。信ずるとはわからなくても、理解できなくても受け入れ信ずる、否、信ずることに自ら意思決定する事である。信ずるとは意志で決め受け入れること、それが信仰となり力が注がれるのである。
よく「信じられない」と言って自分で決定しないで信じれるのを待っている人がいるが信仰は受け身では得られない。決定して奪い取る主体的なものである。すると御言葉が生きた力となって道が見えて来るのである。「御言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」(詩編119:120)「御言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩編119:105)が自分の中に実現するのだ。マリヤも「わたしは主のはしためです。お言葉どうりにこの身になりますように」の信仰で出発したのだ。エリサベツは「主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は何と幸いでしょう」(ルカ1:45)と告白している。
クリスマスは聖霊の出来事であり信仰で受けとめる出来事である。
by oume-akebono
| 2016-01-07 03:27
| 週報メッセージ