2015年 05月 24日
5月24日 捨て身に生きた弟子達
(使徒行伝 2:37) 大谷唯信牧師
「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。
ペンテコステの時、聖霊に満たされペテロの語った言葉を聞いた人々の叫びであった。誰でも神からの御言葉が心の奥にある霊にまで届くと、このような反応が起きるのである。勿論、それを自分の心で打ち消したり否定する事はできるであろう。しかし自分の自我の心を破り真実の自己に立ち帰るには、またとないチャンスでもあるのだ。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであるから絶対に間違いはない。読む者も、霊と真を尽くして読むべきなのである。即ち、疑ったり批判的な心で読むのではなく、受胎告知を受けた時の処女マリヤのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)との思いで読み、主に向き合うのである。
ペテロはまず「悔い改めなさい」と言った。これは今迄、神を知らず自分中心で生きていた罪を悔い、これからは神を心に受け入れ、神を中心に生きていく決意を言うのである。そして次に「あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。」と言われる。これはキリストの十字架に死と復活を表し、これを受けることによって、わたし達もキリストの十字架の死と復活にあずかる者とされることを語っているのである。もし、これを受けるならば、賜物として与えられる聖霊によってキリストの十字架の死と復活の恵みが与えられ、私達は神の子、神の家族とされるのである。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。」(Ⅱコリント5:17-18)
私達は日々新たに生きようではないか。それは日々自分に死ぬことである。死ねば主が生かして下さる。自分で生かそうとするから不安が出る。マリヤは捨て身に生きたことを覚えよう。
「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。
ペンテコステの時、聖霊に満たされペテロの語った言葉を聞いた人々の叫びであった。誰でも神からの御言葉が心の奥にある霊にまで届くと、このような反応が起きるのである。勿論、それを自分の心で打ち消したり否定する事はできるであろう。しかし自分の自我の心を破り真実の自己に立ち帰るには、またとないチャンスでもあるのだ。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであるから絶対に間違いはない。読む者も、霊と真を尽くして読むべきなのである。即ち、疑ったり批判的な心で読むのではなく、受胎告知を受けた時の処女マリヤのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)との思いで読み、主に向き合うのである。
ペテロはまず「悔い改めなさい」と言った。これは今迄、神を知らず自分中心で生きていた罪を悔い、これからは神を心に受け入れ、神を中心に生きていく決意を言うのである。そして次に「あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。」と言われる。これはキリストの十字架に死と復活を表し、これを受けることによって、わたし達もキリストの十字架の死と復活にあずかる者とされることを語っているのである。もし、これを受けるならば、賜物として与えられる聖霊によってキリストの十字架の死と復活の恵みが与えられ、私達は神の子、神の家族とされるのである。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。」(Ⅱコリント5:17-18)
私達は日々新たに生きようではないか。それは日々自分に死ぬことである。死ねば主が生かして下さる。自分で生かそうとするから不安が出る。マリヤは捨て身に生きたことを覚えよう。
by oume-akebono
| 2015-05-24 12:17
| 週報メッセージ