2015年 04月 20日
4月19日 ユダヤ人の失敗の原因
(ローマ人への手紙 10:3) 大谷唯信牧師
「・・・彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。」
ユダヤ人は神に律法を与えられたが、救いを得るに至らなかった。彼らの神に対する熱心は他に比べようもないものであったのだがとパウロも証言している。パウロも彼ら以上に熱心であり、律法については落ち度のない者と自ら言い切れるほどに、熱い情熱を注いでいたからわかるのである。何故救いを得ることが出来なかったのか。熱心であれば、命がけであればよいということではなかったのである。これは私達にとっても気を付けなければならない事であろう。
その問題とは?彼らは神の義を深く知ろうとはせず、自分が律法を行う自分の努力や、自分の行いにより自分の義を立てる事で、救われようとした事にある。彼らは神の義によって救いを得るのではなくて、自分の義によって救われようとし、結果的には神に従っているのではなく、自分の思いに従い、自分の義で救われようとしていたのであった。
私達も忠実なクリスチャンとなり、主に喜ばれるキリスト者になろうとして、頑張って取り組んでいるうちに、いつの間にか自分の義を立てて救われようとしている事がある。これは誰もが陥るところである。即ち、良いことであっても、肉(自己中心)の働き(ガラテヤ人への手紙5:19)になってしまっているから、傷ついたり、つまずいたりして教会から離れたくなったり、つまり苦しむことになってしまう。こういう事を通して一人前に成長して行くのだが、霊的に成長するまでは、社会人としては立派であっても、信仰的には子供で、すぐ不機嫌になったり、つまずいたりする事が起こるのである。
だから、成長・訓練の場として教会が与えられているのだ。教会を離れては成長はないのである。「あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。・・・決して行いによるのではない。」(エペソ人への手紙2:8-9)私達は信仰によって「神の側に立つ」のである。「神の側に立って」御言葉を味わい、御言葉の約束を受け取り、主の恵みの中にいる自分を感謝し、その喜びを証しする者になろうではないか。
「・・・彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。」
ユダヤ人は神に律法を与えられたが、救いを得るに至らなかった。彼らの神に対する熱心は他に比べようもないものであったのだがとパウロも証言している。パウロも彼ら以上に熱心であり、律法については落ち度のない者と自ら言い切れるほどに、熱い情熱を注いでいたからわかるのである。何故救いを得ることが出来なかったのか。熱心であれば、命がけであればよいということではなかったのである。これは私達にとっても気を付けなければならない事であろう。
その問題とは?彼らは神の義を深く知ろうとはせず、自分が律法を行う自分の努力や、自分の行いにより自分の義を立てる事で、救われようとした事にある。彼らは神の義によって救いを得るのではなくて、自分の義によって救われようとし、結果的には神に従っているのではなく、自分の思いに従い、自分の義で救われようとしていたのであった。
私達も忠実なクリスチャンとなり、主に喜ばれるキリスト者になろうとして、頑張って取り組んでいるうちに、いつの間にか自分の義を立てて救われようとしている事がある。これは誰もが陥るところである。即ち、良いことであっても、肉(自己中心)の働き(ガラテヤ人への手紙5:19)になってしまっているから、傷ついたり、つまずいたりして教会から離れたくなったり、つまり苦しむことになってしまう。こういう事を通して一人前に成長して行くのだが、霊的に成長するまでは、社会人としては立派であっても、信仰的には子供で、すぐ不機嫌になったり、つまずいたりする事が起こるのである。
だから、成長・訓練の場として教会が与えられているのだ。教会を離れては成長はないのである。「あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。・・・決して行いによるのではない。」(エペソ人への手紙2:8-9)私達は信仰によって「神の側に立つ」のである。「神の側に立って」御言葉を味わい、御言葉の約束を受け取り、主の恵みの中にいる自分を感謝し、その喜びを証しする者になろうではないか。
by oume-akebono
| 2015-04-20 12:50
| 週報メッセージ