2014年 10月 12日
10月12日 できないからよいのだ
(マルコ 10:27) 大谷唯信牧師
「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである。」
富める青年がイエスのもとを立ち去った時であった。イエスが言われた。「富んでいる者が天国に入るのはむずかしいものである。らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」と。
これは完全に不可能ということではなかろうか。弟子達も驚いて、「それでは誰が救われることができるのだろう」と言ったのも当然だと思う。しかしイエスは弟子達を見つめて言われたのだ。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである。」
これこそ驚くべきことではなかろうか。だがイエスはこの驚くべき恵みを与えるためにこの世に来られたのだ。私達には全く不可能と言うしかない出来事に、正面からぶつかり、可能として下さると宣言しておられるのである。主は何事もなかったように「主によって喜びをなせ、主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにされる」(詩37:4-5)と言われる。ここからは神の霊の中の、神の命の次元の出来事である。
それならば、私達も霊とまことをもって受け取るべきであろう。ここが理性と信仰の戦いの場となる。しかし信仰は自分の理解や知的納得ではない。わかる、わからないの知的判断ではなく、神の言われる御言葉をそのまま信じて受け取ることなのである。神の生きた霊的いのちに触れる接点は、イエスを信ずる信仰以外にはない。多くの人は信ずる信仰ではなく、知的理解や納得を求める。これで何とか納得してクリスチャンになる方もいると思う。入口のステップとしてはそれもよい。しかし絵に描いた餅に過ぎないことは、本人にはやがてわかることになろう。何もできないからである。
実に、信仰の道はここから始まるのである。「わたしに呼び求めよ。そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事をあなたに示す」(エレミヤ33:3)。
by oume-akebono
| 2014-10-12 20:00
| 週報メッセージ