2013年 07月 01日
6月23日 弱さに徹し主を仰ぎ見よ
(コリントⅡ11:29) 大谷 唯信 牧師
「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。」
誰でも一つや二つ、否、それ以上に自分の弱さを持っているものだ。又、具体的に何がではないが人間全体として自分は弱い人間だと思っている。それだけに自分の弱さを相手に知らせないように敢えて強そうに振るまったり格好つけたりもする。自分より良く見せるのも反対に悪振るのも自分の弱い所を隠す自分なりの常套手段なのだ。とにかく自分の正体は出さない、見せない、知らせないとの思いが無意識にも出ているのが普通の人なのである。恥をかきたくない、失敗したくない、人によく思われたい等々、いつの間にか無理をし背伸びをし自分は自分と思いながら自分らしさが独善的、独りよがりになり、他者とうまくいかなくなったり、それがまさか自分が原因だとは気づかない。
もし気づいたりすればショックは大きく痛く落ち込み今度は強さ弱さではなく波風を起こさない無難な「良い人」を演じる術を学んでいく。何が起きてもニコニコして表面的に無難に対応する、どっちにもつかず良識の中で振るまい「良い人」になるのである。本音も本心もない。その時々の常識論、一般論で正解を出し対応していく。これは実に楽である。互いに傷つけ合う事はない。中に踏み込まないからだ。
今や現代人は「自分なりの良い人」病にかかっているではないか。だから皆、孤独なのだ。誰もが自分の事からしか見てはいない。職場は勿論、家族の夫婦、親子ですら同じだ。家族では甘えがあるから押さえていた本音が爆発し離婚や家庭崩壊も起こる。閉じこもっていた者同士、対話を造り出せないからだ。全て弱さへの対処が間違っているために起きているのだ。
パウロは正直だ。自分の弱さを認めた。そして自分を超えた絶対的力であるキリストを求めた。その時、「主の力は弱いところに完全にあらわれる」ことに気づくのである。そして次のように語っている。「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと侮辱と危機、迫害と行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 」(Ⅱコリント12:9-10)と。
弱さに徹し主を仰ぎ見よ。
「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。」
誰でも一つや二つ、否、それ以上に自分の弱さを持っているものだ。又、具体的に何がではないが人間全体として自分は弱い人間だと思っている。それだけに自分の弱さを相手に知らせないように敢えて強そうに振るまったり格好つけたりもする。自分より良く見せるのも反対に悪振るのも自分の弱い所を隠す自分なりの常套手段なのだ。とにかく自分の正体は出さない、見せない、知らせないとの思いが無意識にも出ているのが普通の人なのである。恥をかきたくない、失敗したくない、人によく思われたい等々、いつの間にか無理をし背伸びをし自分は自分と思いながら自分らしさが独善的、独りよがりになり、他者とうまくいかなくなったり、それがまさか自分が原因だとは気づかない。
もし気づいたりすればショックは大きく痛く落ち込み今度は強さ弱さではなく波風を起こさない無難な「良い人」を演じる術を学んでいく。何が起きてもニコニコして表面的に無難に対応する、どっちにもつかず良識の中で振るまい「良い人」になるのである。本音も本心もない。その時々の常識論、一般論で正解を出し対応していく。これは実に楽である。互いに傷つけ合う事はない。中に踏み込まないからだ。
今や現代人は「自分なりの良い人」病にかかっているではないか。だから皆、孤独なのだ。誰もが自分の事からしか見てはいない。職場は勿論、家族の夫婦、親子ですら同じだ。家族では甘えがあるから押さえていた本音が爆発し離婚や家庭崩壊も起こる。閉じこもっていた者同士、対話を造り出せないからだ。全て弱さへの対処が間違っているために起きているのだ。
パウロは正直だ。自分の弱さを認めた。そして自分を超えた絶対的力であるキリストを求めた。その時、「主の力は弱いところに完全にあらわれる」ことに気づくのである。そして次のように語っている。「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと侮辱と危機、迫害と行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 」(Ⅱコリント12:9-10)と。
弱さに徹し主を仰ぎ見よ。
by oume-akebono
| 2013-07-01 12:21
| 週報メッセージ