2013年 02月 08日
1月20日 輝くクリスチャンに!
(マタイによる福音書 5:16) 大谷 唯信 牧師
「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
ある青年から「先生、天職と言うものがあるのでしょうか?」と尋ねられた。確かにある。だからと言って簡単に人に示せるものではない。これは一人一人が真剣に求めるべきものであろう。近頃「天職」と言う言葉すら余り聞かない。どんな仕事であっても本人が「もしかしてこれはわたしの天職かもしれない」と思えたならそれは素晴らしい事である。英語等では職業そのものの意味が「神からの召し」「神からの呼び出される」の意味がある。
仕事に就くことは神の招きへの応答としてなされ、家族、社会のためは勿論であるが一番大切な事はそれらを通し、神の栄光をあらわす事に究極の目的があるのである。多くの人が生きるのは自分のため家族のため、で留まってしまうのだが、これを包含し、さらに突き抜けて「神の栄光のため」に結びついた時、初めて真に充実した人生として生きる意味が出てくるのである。
クリスチャンは、自分だけ救われればよいのではない。「あなたがたの光を人々の前に輝かし」とイエスは語る。さらに「人々があなたがたのよい行いを見て、神をあがめるようにしなさい」と言われる。それ故、私達は「主の訓練」を受けて自分を磨き輝かす使命と責任があるのである。
私達は神の愛の中で受け身となりいつの間にか「自分なり」と言う「ぬるま湯」になってはいないだろうか。「わたしはあなたのわざを知っている冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」(ヨハネの黙示録 3:15)とイエスは語られている。私達は「今」を全力で生きるのだ。あすではなく「今」を生きるのである。「今」を主に捧げていくのだ。サタンは常に私達の主に従う「今」を奪うのが仕事である。サタンに「今」を奪われてはならない。教会を愛し礼拝、祈祷会に参加しよう。これは主の御心であるからだ。「熱心でうむことなく、霊に燃え、主に仕え」ようではないか。
「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
ある青年から「先生、天職と言うものがあるのでしょうか?」と尋ねられた。確かにある。だからと言って簡単に人に示せるものではない。これは一人一人が真剣に求めるべきものであろう。近頃「天職」と言う言葉すら余り聞かない。どんな仕事であっても本人が「もしかしてこれはわたしの天職かもしれない」と思えたならそれは素晴らしい事である。英語等では職業そのものの意味が「神からの召し」「神からの呼び出される」の意味がある。
仕事に就くことは神の招きへの応答としてなされ、家族、社会のためは勿論であるが一番大切な事はそれらを通し、神の栄光をあらわす事に究極の目的があるのである。多くの人が生きるのは自分のため家族のため、で留まってしまうのだが、これを包含し、さらに突き抜けて「神の栄光のため」に結びついた時、初めて真に充実した人生として生きる意味が出てくるのである。
クリスチャンは、自分だけ救われればよいのではない。「あなたがたの光を人々の前に輝かし」とイエスは語る。さらに「人々があなたがたのよい行いを見て、神をあがめるようにしなさい」と言われる。それ故、私達は「主の訓練」を受けて自分を磨き輝かす使命と責任があるのである。
私達は神の愛の中で受け身となりいつの間にか「自分なり」と言う「ぬるま湯」になってはいないだろうか。「わたしはあなたのわざを知っている冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」(ヨハネの黙示録 3:15)とイエスは語られている。私達は「今」を全力で生きるのだ。あすではなく「今」を生きるのである。「今」を主に捧げていくのだ。サタンは常に私達の主に従う「今」を奪うのが仕事である。サタンに「今」を奪われてはならない。教会を愛し礼拝、祈祷会に参加しよう。これは主の御心であるからだ。「熱心でうむことなく、霊に燃え、主に仕え」ようではないか。
by oume-akebono
| 2013-02-08 09:22
| 週報メッセージ