2012年 11月 18日
11月18日 向き合う勇気を持て
(マタイによる福音書 16:15-16) 大谷 唯信 牧師
「『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子 キリストです』。」
近頃、もっと「向き合う」べきと言う言葉を、親子、夫婦に対してアドバイスしたり、反省の声として耳にすることが多くなっていると思う。怒りや文句のぶつけ合いではない。人間としての、人格的な心からの対話だ。そういう目でまわりや自分を見ると、何と向き合う言葉が少ないことか。
向き合った言葉には、必ず何らかの衝撃が起こるものだ。現代人はこの衝撃に耐えられないのかも知れない。衝撃が起こらないようにしてしまう。第三者の話や一般論にしてしまう。そこには語った私も、それを受け取るあなたもいない。人間不在だ。だれも怪我をしないで済むのだ。安全な中で会話だけが流れる。これでは互いに閉じこもっての会話ではないか。内容は正しくとも、まるで点けっ放しのラジオが勝手にしゃべっているようなものである。これでは何時間話していても、まず触れ合うことは起きて来ないであろう。
その点、イエスは何と見事に一人ひとりに向き合って行く事か驚くのである。初めは弟子達に人々は私の事を何と言っているかを問う。弟子たちは次々と先を争うように自分の知っている所を述べる。得意にさえなる。これは何を言っても安全だ。一般論であり、他人の事だからだ。自分に危険が及ぶことはない。しかし、これは本論ではない。本論に近づくための助走である。
ところがどうであろう。私達はこの助走のところで終止している事はないだろうか。イエスは言われた。「それではあなたは・・・・」と切り込んだ。向き合ったのだ。瞬間、緊張が走る。沈黙が起こる。それぞれ自分と向き合うからだ。現代人はこれが苦手だ。避けてしまうのだ。本当は心の底で分かっていても、それと向き合わない。つい楽な方、安全な方を選ぶ。
勇気を出して、これを受けたのはペテロであった。イエスと向き合ったのだ。実にここから新しい人生の局面が現れるのである。勇気を出してイエスと向き合ってみよう。
「『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子 キリストです』。」
近頃、もっと「向き合う」べきと言う言葉を、親子、夫婦に対してアドバイスしたり、反省の声として耳にすることが多くなっていると思う。怒りや文句のぶつけ合いではない。人間としての、人格的な心からの対話だ。そういう目でまわりや自分を見ると、何と向き合う言葉が少ないことか。
向き合った言葉には、必ず何らかの衝撃が起こるものだ。現代人はこの衝撃に耐えられないのかも知れない。衝撃が起こらないようにしてしまう。第三者の話や一般論にしてしまう。そこには語った私も、それを受け取るあなたもいない。人間不在だ。だれも怪我をしないで済むのだ。安全な中で会話だけが流れる。これでは互いに閉じこもっての会話ではないか。内容は正しくとも、まるで点けっ放しのラジオが勝手にしゃべっているようなものである。これでは何時間話していても、まず触れ合うことは起きて来ないであろう。
その点、イエスは何と見事に一人ひとりに向き合って行く事か驚くのである。初めは弟子達に人々は私の事を何と言っているかを問う。弟子たちは次々と先を争うように自分の知っている所を述べる。得意にさえなる。これは何を言っても安全だ。一般論であり、他人の事だからだ。自分に危険が及ぶことはない。しかし、これは本論ではない。本論に近づくための助走である。
ところがどうであろう。私達はこの助走のところで終止している事はないだろうか。イエスは言われた。「それではあなたは・・・・」と切り込んだ。向き合ったのだ。瞬間、緊張が走る。沈黙が起こる。それぞれ自分と向き合うからだ。現代人はこれが苦手だ。避けてしまうのだ。本当は心の底で分かっていても、それと向き合わない。つい楽な方、安全な方を選ぶ。
勇気を出して、これを受けたのはペテロであった。イエスと向き合ったのだ。実にここから新しい人生の局面が現れるのである。勇気を出してイエスと向き合ってみよう。
by oume-akebono
| 2012-11-18 23:00
| 週報メッセージ