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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


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11月11日   祈る教会になろう

(使徒行伝1:14)      大谷 唯信 牧師




「彼らはみな、イエスの兄弟達と共に、心を合わせて、ひらすら祈りをしていた」



 祈りは絶望の中から始まる。自分の無力さ、弱さ、暗さにおおわれた時、その絶望をそこに置き、自分を手放し主を見上げ自分のそのままの思いを祈りを持って語り、神の最善を求めてみよう。何もわからなくなった時、もう何も考えられない、何も出来ないと思える時…誰でもこう言う時があるのだが、この世の人は悲しみの中でのた打ちまわるだけである。しかし私達はここで祈る事を知っている。イエスの名によって祈るのだ。御聖霊が必ず信仰へと導きいやしと希望の中に入れて下さる。「何故なら、わたし達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたし達のためにとりなして下さるからである」(ロマ8:26)
 

キリスト者の喜びはただ喜んでいるのではない。常に自分の中にある罪の弱さに絶望しつつ、だからこそ祈り主を見上げ聖霊の助けによって喜びあふれているのである。自分への絶望からの祈りが聖霊を呼び、聖霊が信仰を呼び、信仰が希望を与えて下さるのである。
 

キリスト者は常に弱さ、絶望、死を身に感じているものだ。だからこそ祈る。すると御霊により生きる命があふれ、喜び平安、確信に満たされる。その根拠はわたしではなくキリストにあるのだ。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのである」(ガラテヤ2:19-20)が自分の中に起きてくるのである。そうなるまで祈ってほしい。
 

祈りが不足している信仰生活は苦しいものとなる。エンプティーのマークが点灯したのだ。給油の必要がある。それは祈りだ。キリスト者はこの世の肉の世界にいながらにして神の命の霊の世界に生かされている。この霊の領域を深め拡げていくのは聖霊を信じての祈りにある。使徒教会はこの祈りによって進んだ事を覚え私達もそれに続こうではないか。
by oume-akebono | 2012-11-12 07:54 | 週報メッセージ