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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


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5月6日   自己実現か神実現か?

(マタイによる福音書 16:24)  大谷 唯信 牧師


「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」


この世の生き方は徹頭徹尾、自分の命を救おうとする生き方、即ち自己実現なのだ。仕事も勉強も食べるも飲むも、全ては自分のためにが基本である。勿論そうであっても、人のため社会のために善を施し、社会貢献もする。しかしエゴの心は、やっただけの見返りを秘かに求めているのではないか。やはり「自分を得ようとする者」になってしまう。本当に純粋に無私の心で他者に尽くしてあげた事は何回位あるだろうか。正直、少ないのではなかろうか。


自分の目標、理想をかかげて突き進む事は大切な事である。多くの人が向上心を燃やし、目標を目指して歩むが結局は自己実現の生き方、エゴの増長の領域から出られてはいない。
イエスは命の世界に関しては、逆の原理がある事を示された。即ち、得ようとする者は失い、捨てる者がそれを得ると言うのである。

哲学者吉村思風はこれに近い事を述べている。「生きるとは、命をかけると言う事だ。命の最高の喜びは、命をかけても惜しくない程の対象に出会う事にある。その時こそ、命は最も充実した生の喜びを味わい、激しくも美しく燃え上がるものである。君は何に命をかけるのか。君は何のためになら死ぬ事が出来るか。これに答える事が生きる事であり人生である」と。


純粋に人生を考えていった者の姿ではなかろうか。心は純粋なものを渇望しているのだ。「命の最高の喜びは命をかけても惜しくない程の対象に出会う事」は誰もが心の奥の純粋な所で求めているのだ。ここにサタンはつけ込み、我が国では天皇を神とし国家権力をもって戦争を引起し、多くの命を奪ったのである。
神の子イエスのみがその対象なのである。イエスは「わたしのために」と言われた。真に生きるとは、自己実現ではなく神実現に身を投じた時、結果として自己実現が得られるという事である。それはイエス御自身が私達の罪のために命を捨てて下さったからである。
by oume-akebono | 2012-06-01 00:25 | 週報メッセージ