2012年 04月 03日
4月1日 神のわざによる教会に
(ヨハネによる福音書 6:54) 大谷 唯信 牧師
「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きる」
十字架のキリストこそ天からの生きたパンある。今年も受難週を迎えたが、ただイエスの十字架の出来事を繰り返し見ているだけではいけない。この出来事を通して神が全人類になされた救いの御業、イエスの血と涙による命がけの行動が、実はこの私に向けられている事であると、まともに受けとめようではないか。
救いが、教理として当然知っているクリスチャンの常識になっていてはいけない。この世では、人はパンを得るために必死である。我々もそうだ。ますます社会は厳しい。理屈など言っていられないのである。
だからこそイエスはそれらを超越した無限な力を得させるために、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」(ヨハネによる福音書6:27)と語られ、しかもイエス御自身がその朽ちない食物、命のパンである事を明かされた。「永遠の命に至る朽ちない食物のために働く」これが無ければ一切の働きは空しい。
「わたしが命のパン、神はわたしにそれをゆだねられた」とイエスは語る。男は感激して「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか。」と問うたのである。この世は常に「何を、どのように?」との問いに答える事によって成り立っている。確かにこの世の事ではこの問いは大切だ。しかし、この男は「何をしたらよいのか」が分かれば自分の力で神のわざをする事が出来ると思っているのだ。
熱心に学び研究し行動するほど、わたし達も神のわざを行うことが出来ると思う。果たしてそうだろうか。イエスは答えられた。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」と。神のわざはわたし達やあれやこれやと働くマルタには無い。イエスを救い主として信じること自体が、神のわざなのである。人が神のわざをするのではない。神が神のわざを行うのだ。聖霊の促しによって、ただ信じるのである。
イエスの十字架が古きわたしを取り去り、新しくされたものとして歩み出させる。その時、全てが神のわざとなり、朽ちない食物への働きとされていくのである。
「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きる」
十字架のキリストこそ天からの生きたパンある。今年も受難週を迎えたが、ただイエスの十字架の出来事を繰り返し見ているだけではいけない。この出来事を通して神が全人類になされた救いの御業、イエスの血と涙による命がけの行動が、実はこの私に向けられている事であると、まともに受けとめようではないか。
救いが、教理として当然知っているクリスチャンの常識になっていてはいけない。この世では、人はパンを得るために必死である。我々もそうだ。ますます社会は厳しい。理屈など言っていられないのである。
だからこそイエスはそれらを超越した無限な力を得させるために、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」(ヨハネによる福音書6:27)と語られ、しかもイエス御自身がその朽ちない食物、命のパンである事を明かされた。「永遠の命に至る朽ちない食物のために働く」これが無ければ一切の働きは空しい。
「わたしが命のパン、神はわたしにそれをゆだねられた」とイエスは語る。男は感激して「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか。」と問うたのである。この世は常に「何を、どのように?」との問いに答える事によって成り立っている。確かにこの世の事ではこの問いは大切だ。しかし、この男は「何をしたらよいのか」が分かれば自分の力で神のわざをする事が出来ると思っているのだ。
熱心に学び研究し行動するほど、わたし達も神のわざを行うことが出来ると思う。果たしてそうだろうか。イエスは答えられた。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」と。神のわざはわたし達やあれやこれやと働くマルタには無い。イエスを救い主として信じること自体が、神のわざなのである。人が神のわざをするのではない。神が神のわざを行うのだ。聖霊の促しによって、ただ信じるのである。
イエスの十字架が古きわたしを取り去り、新しくされたものとして歩み出させる。その時、全てが神のわざとなり、朽ちない食物への働きとされていくのである。
by oume-akebono
| 2012-04-03 23:02
| 週報メッセージ